「病いを超えて 新しい自己(1)」

★書名 「病いを超えて 新しい自己(1)」
     (柳田邦男責任編集、文芸春秋社・同時代ノンフィクション選集第2巻、
                                  1992年、2900円)

★書評 (中島)

  これは障害者問題に造詣が深く、自らの息子をも自閉症のすえ自殺で失った
にがい経験をもつ評論家柳田邦男氏が、数多い闘病記の中から印象深いものを
精選して紹介し、解説をくわえた大冊のアンソロジーである。同じ選集の「病いと
ともに」の続刊となる。 

  収録作品は、中島みち著「誰も知らないあした ガン病棟の手記」、横田整三著
「脳卒中リハビリ日記」、恋塚弘著「甦る!失語症克服の記録」、平塚正夫著「心臓
病棟の60日」、野武歌子著「ななかまど」の五編である。それぞれに味わい深い。
あわよくばそこに頚髄損傷や脳性マヒなど、さらに重篤な障害をかかえながらもたく
ましく生き抜いている者たちの本も加えてもらえれば幸いであった。

  巻末には年代ごとの障害者関連著作の一覧も付してあるので、柳田氏のリサーチ
の幅広さに敬服する。そこにはせきずい関係のものもあるので、関係者には参考にな
るだろう。闘病記というのは一部の関係者だけにしか読まれず、あとは大海原をただ
よう手紙の瓶のように点在しているのが実状なので、それらを体系づけてくれ資料と
しても貴重である。私など評論「障害者の文学」(明石書店)を書くうえで、大いに
参考にさせてもらった。

  柳田氏は「終末の刻を支える」(三輪書店「ターミナルケア」六月増刊号)の中
で、闘病記について
  「一人の人間としてこの世に生きたという己れの実存を確かめようとするその人
ならではの言葉を刻む営みという意味で、闘病記はすぐれて文学の領域に属するもの
だと、私はとらえている」(いのちの言葉を生み出す死 闘病記と『意味の実現』)
  とも言っている。この眼差しは先の息子を亡くしたいきさつを赤裸々につづった
名著「犠牲 サクリファイス」から通ずるものである。
  
  こう言ってもらうとありがたいが、闘病記については私も「障害者の文学」の中
でその文学としての位置づけのあいまいさと、障害者たち自身による自己批判の大切
さを述べているので、ちょっと複雑な心境になる。
  闘病記のなかには残念ながら自己満足にすぎぬようなもの、あるいは身内への体
裁と偽善をつくろっただけのもの、障害者の視野の狭さにみじんの疑問も抱かぬもの
なども混じっているのである。それを見分けるためにも、こういう幅広い分野の選集
などを読んで、眼力を養うことが大切だろう。
  
  そのうち「誰も知らないあした ガン病棟の手記」(中島みち著、時事通信社、
1972年)は、テレビなどでおなじみのジャーナリスト中島みち氏の闘病記であ
る。五編の中でも率直さにおいてきわだっている。中島氏は1931年生まれ、東京
女子大英文科卒、東京放送のアナウンサーからフリーとなり、1970年夏に乳ガン
のため片乳房切除、以後ノンフィクション作家として現在も活躍中である。その他の
著作に「ガン病棟の隣人」「悔いてやまず」「見えない死」などがある。
  その潔い言葉を以下に引用しておこう。
  
★引用
  
  「乳房なんて、こんなグロテスクなケッタイなもん、もういらんワ。かのギリシャ神話
に出てくるアマゾンは、女といえども馬上で闘い、弓を引くときの邪魔になってはと、
みんな小さいうちに右の乳腺を切り落とされて左の乳房のみだったというではないか。
よっしゃ、これからはアマゾンの美女や。右胸に長い黒髪、男に対しても、何もわざわ
ざ右胸を見せる必要はないが、劣等感をもつ必要もないではないか。
行くぞォ! 私は鮮やかな花柄のタオルを右肩から左脇に流してまきつけ、早くも野
山に馬を駆る野性の美女の気分になって、胸をはった。」

  「私は、単細胞を自認する幸福な人種の一人なので、姉の病苦への同情が健康と
いう幸福の享受へと結びつき、そこから“限りある身の力ためさむ”式の発想へとつ
ながったわけである」





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