「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」


★ 書名

「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」

渡辺一史著、北海道新聞社、2003年、1800円

◆ 書評 (中島虎彦)

 タイトルの奇抜さに惹かれて読んだが、見事にスカされてしまった。つまり私は障
害者の側が夜中に腹がへり介護者に何か食べさせてくれと頼んだら、バナナを食
わされたので『何だもう少しあったかい物でも作れよ』と憤慨しているのかと受け取
っていた。

 しかし実際は逆で、介護者ボラの側が障害者の主人公に何度も叩き起こされ
「バナナを(もう一本)食べさせてくれ」と言われて、眠い目をこすりながら怒り半分に
こうぼやいているのだった。

 なんだそんなこと、と思われるかもしれないが、この違いは意外に大きい。前者な
ら、介護されていながら全身性障害者のわがままぶり、グルメぶりがとうとうここま
で来たか、というある意味で痛快な話になる。しかし後者なら『障害者だから少々の
ことは我慢しなければならない』という今までの状況とさしたる違いはないことにな
る。
 しかし、そう決めつけるのはせっかちというものだった。

 渡辺氏は1968年、愛知県生まれのフリーライター。北海道大を中退したあと、なん
でも屋の雑文を書いていたが、北海道新聞記者の紹介で鹿野氏と出会い介護ボラ
ンティアに通ううち、衝撃を受けてこの本を著すにいたっている。なおこの本は講談
社ノンフィクション賞を受けている。

 鹿野氏は1959年、札幌市生まれ、小学六年生のとき「デュシャンヌ型筋ジストロフ
ィー」と診断される。12歳で国立療養所八雲病院に入院し、併設された道立八雲養
護学校に通う。卒業後マヒの軽いうちに結婚したこともあるが離婚している。

 次第にマヒが進んでゆき人工呼吸器を付けなくてはならなくなるが、親の人生を犠
牲にさせたくないと道営ケア付き住宅で自立生活を始める。24時間体制のケアがつ
いていても、鹿野氏の場合は頻繁な痰の吸引など細かな介護が必要なため、ビラを
配って何十人というボランティア(主婦から学生までさまざま)を集め綿密なローテー
ションを組みあげている。

 ボランティアたちはわがままな鹿野氏と触れ合うことで、それまでの人生では見出
せなかった「必要とされている実感」を味わい、その後の人生を大きく左右されてゆ
く。その様子をつぶさに見ていて、渡辺氏は「健常者には障害者がどうしても必要な
のかもしれない」と考えるに至る。

 そこに鹿野氏の存在意義が光り輝いてくる。こういう意義は、頸髄損傷にもかかわ
らず最後まで現役の理化教師であった曽我部教子氏の「がべちゃん先生の自立宣
言」(樹心社)などからも読みとれる。脳性マヒとしては遠藤滋氏の自立を描いた映画
「えんとこ」(伊勢真一監督)などもある。

 また、障害者運動の先達で「札幌いちご会」の代表者である小山内美智子氏らと
も交友が始まり、アメリカCILのエド・ロング氏の講演会の招聘を手がけるなど、世
の中にもどんどん出てゆき発言をするようになる。

 外出するには呼吸器を背負いリフト車を雇い介護者二人に付き添ってもらわねば
ならないが、そんな大騒動をしても時々外出しないと気が狂いそうになるという。
散歩好きの私などその気持ちは痛いほどわかる。

 鹿野氏はボランティアに遠慮することなどなく、ずけずけ物を言い、何人もの女性
に恋をするがフーテンの寅さんのようにフラれてばかりいる。それらの顛末はことご
とくボランティアたちの間に筒抜けになっていて、実質的にプライバシーというよう
なものはない。

 ものを書くため一日のうち静かに一人になるまとまった時間がどうしても必要な私
などには、とうてい耐えがたい生活に思えるが、鹿野氏は背に腹は変えられずめげ
るふうもない。

 もし日本中の全身性障害者がこんなふうな自立生活を始めたら、介護の人手が足
りなくなってしまうのではないか、と心配になるのは私だけではあるまい。(それとも
全身性障害者は少ないからちょうど釣りあう割合なのだろうか?)。

 これほど超人的な努力をしなければ自立できないとすれば、そんな社会のほうが
おかしいのではないかと気づいてゆくべきだろう。行政の役割が問われる。そのた
めにも発言しつづけねばならないと氏は自らの存在意義を見出してゆく。

 それにしても、もともと自我の強い(つまりわがままな)人間しか、重度障害者になっ
たら自立できないというのも何かおかしい。子どもの時から「わがままはいけない」
と教えられてきたからだ。それが否定されるのなら、何もかもわやになってしまうで
はないか。
 喧嘩相手である母親の言葉はそこを突いている。

 「うちのにいちゃん(鹿野)の言いなりになんかなってたら、そらァ、とんでもないこと
になるよ。ボランティア、ボランティアって、してもらえるのが当然と思ったら、それは
大まちがいだ。そんなふうに、障害者の名のもとにアグラかくようなことになったら困
る。それでときどき私が来ては、にいちゃんの首根っこをギュッと押さえるわけだ」 

 ここには、世間様に迷惑をかけてはいけない、という根強い価値観が今でも息づい
ている。これは確かに一つの見識ではあるから、狭い世界で障害者たちがついつい
傲慢になってゆくのを諌めてくれる貴重な言葉であろう。それとの闘いは死ぬまで終
わることはないと言ってもいいだろう。

 あるいはスーパーマン、スーパーウーマンでなければ自立できない、というのもお
かしい。そうでなくても自立できるような社会が確かに来なければならない。そのと
きこんな本は前世紀の遺物のようになってるだろう。
 しかしそれが完備されてしまったら、障害者たちはあまり努力しなくなり、怠け者に
なってしまうかな(笑い)。人間って難しいなあ。
 
 さて、自立の要諦とは「自己決定」と「自己責任」だとよく言われる。してみると街な
かのアパートで一人暮らしするだけでなく、たとえ親兄弟と同居していても、施設に
入っていても自立はできることになる。

 つまり朝起きて、きょうは何を着ようか、何を食べようか、何をしようか、何をして働
こうか、何をして遊ぼうか、何を悪さしようか、などなどすべて自分で決め、その結果
がどうであれ誰にも文句は言えない、という態度を貫ければ立派なものであろう。
もちろんそのためには各種の介護制度や資金やサービスやボランティアなど最大限
に活用しなければならないことは言うまでもない。

 実際、鹿野氏の盟友である我妻氏は、現実には施設や生家で暮らしている障害者
が圧倒的に多いのだから、さしせまった問題として「施設内の自治」などに力を注い
でゆくべきではないか、と考えて運動している。

 ちなみに鹿野氏は懇切なケア付き住宅に住んでいるほかに、障害基礎年金と生活
保護と各種公的介護料を受け取っていて、それでもボランティアのどたキャンが入っ
たりすると有料の民間在宅支援サービスを利用しなければならず、財政は火の車だ
という。

 無年金の私などから見ると、ポカンと口が空いてしまいそうになる。



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