| ★ ペン人 |
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| (内容) これは昭和54年に佐賀市を中心に創刊された同人詩誌「廃夢」を前身としている。創刊メンバーは味志陽子、河北徹、岩本美樹子、古賀一子、小松義弘、佐藤友則など、健常な20代、30代の詩人たちであった。3号から中島虎彦が参加して、希少な頸髄損傷者の視点を加えている。500部ほど刷って文学関係者やマスコミに寄贈し、残りは市内の書店に置いてもらっている。 その後、詩だけでなく短歌や小説や評論も載せるようになり、昭和59年には総合的な文芸同人雑誌をめざして「ペン人(ぺんじん)」と改名。「廃夢」時代に10号まで発行。各号のあいだには「ずいじ版」という薄い冊子も数冊出している。「ペン人」になってからは平成12年現在までに25号を出している。 「ペン人」の20号くらいまでは年二回の定期発行を保っていたが、その後味志が継続的な市民運動へ身を投じてゆくようになり、代わりに中島虎彦が編集を担当している。また同人たちの壮年化や現代詩の衰退にともなって原稿が集まらなくなったので、最近は二年に一冊ほどの割合で発行している。さまざまなメディアの氾濫する今、純文学など風前の灯火といったところである。 作品としては味志陽子の「金色の樹の火の」や「電話」、河北徹の「エレベーターちょうちょ」、佐藤友則の「菜の花」「未生ノ時ニ」「とかげ」「無題」、藤木法順の「ノブゴロドの夏」「ぼくの日常」、田口香津子の「漢字かんじて」などの詩作品への評価が高かった。編集者としての味志陽子には「中島虎彦の作品を大切に載せてきた」と評価する声もある。ここでは中島について述べる。 そのうち中島虎彦は「廃夢」3号に、見舞いにきてくれた友人たちの持参した千羽鶴が深夜翔び立ってゆくという幻想を描いた「九百九十九たす一羽鶴にまつわる神話」という長い散文詩を発表している。その作中には999個の「ぱた、ぱた、ぱた」という擬態語が出てきて度肝を抜く。この作品によって中島の想像力は文字通り羽ばたき始めたといってもよいだろう。 「獣の眼」というすぐれた幻想小説集をもつ堤盛恒は、「新郷土」という中島も編集協力スタッフをつとめていた県文化課の雑誌で、「その同人雑誌にとって存在意義となるような作品が載ることは嬉しいことである」と批評している。また同人である主婦の高校生の娘は「ぱた、ぱた」の部分にピアノで曲をつけている。 その他、2号には「大寒物語」という詩、3号には「旅その後」、4号には「柿の木のある家の子のために」という散文詩、5号には「沙悟浄の現代性」という評論、6号には「九百九十九たす一羽鶴にまつわる神話・補遺」という台詞体の詩を発表している。 「ずいじ版」では「泣き太陽・でんぐり返り太陽・やり太陽」などの言葉を切り貼りした「核分裂反応」という絵詩の試みを発表し、絵描きの服部大次郎氏らから好評を博したりした。また「いっぽん杉」という散文や、短歌抄もたくさん発表している。 一方、「ペン人」1号からは「へのもへ日誌」シリーズとして、「予兆」「かっくんちゃん」「ロビーとジギタリス」「秘密クラブ」「交わりの樹」「河」などの短編小説、3号からは「ほていあおい」「植者的人間」「生霊」「真夜号漂流」「松原へ」「卑弥呼まで」などの中・長編小説を次々と発表している。ちなみに「へのもへ」というタイトルは、初期の短編の小見出し「あらかじめうしろ姿の人形の哀しみなんぞへのへのもへじ」という短歌からとられている。この最も創作意欲の旺盛な時期に、福岡の「ALL SPICE」という詩誌では、詩人の上村育也による「中島虎彦論」が書かれている。 これらの小説はすべて障害者とりわけ頸髄損傷者が主人公となっていて、電動車いすも頻繁に登場する。これ以前の日本(あるいは世界)にはほとんど例のなかったことである。(詩における星野富弘とともに)、頸髄損傷をはじめとする四肢マヒ者の実態、とりわけ精神世界を世に知らしめたという意義は評価されるだろう。しかし、星野と同様中島にそんな意識はほとんどなかったことだろう。 8号の「ほていあおい」は、町の身障者団体の研修バス旅行で、かつてキリシタンが弾圧されたバラ城址を訪れる話だ。何百もの農民の首が刎ねられたというお堀の跡に、今ではホテイアオイが掌を合わせたように生い茂り、それがいっせいに飛び立ってくるという幻想小説である。 9号の「植物的人間」は、ある日右肘に原因不明の瘤がぷくりと腫れあがった主人公が、町の医院を受診するとなんとそこに高校時代の親友で消息不明だったネコツカが精神科医として働いている。彼はサーフィン事故で植物人間となった若者を抱えて難儀しているふう。彼の診察は埒があかず途方にくれていると、天皇の御幸のパレードが通ったり、彼がソファーの陰で看護婦との乳繰り合いを当てつけたりする、というような幻想小説である。「植物人間」とは屈辱的な呼び名だが、「植物的人間」と書かれると何やら哲学的な風貌を帯びてくる。こういう造語のセンスが中島の真骨頂であろう。 そのうち10号の「生霊」では、頸髄損傷の若者の尻と車いすがある日癒着してしまい困惑していると、今度は妙な噂が伝わってくる。彼とそっくりな人物が遠く離れた街をさまよっていたというのだ。しかもわいせつな狼藉を働いているという。幽体離脱ではないか、いや生霊ではないかという話になり、新聞記者や刑事がやってくるが、彼にはどうすることもできない。そのうち生霊の振る舞いがますますエスカレートしてゆき、彼の家にだんだん近づいてもくる。彼も何らかの態度を迫られ、いよいよ田園へ対決に出かけてゆくという長編小説である。この作品によって中島は自らの想像力を解放する術を決定的に身につけたといわれている。小説での代表作といってもいいだろう。 11号の「真夜号表流」では知的障害者の中年男が、両親の愛ゆえの子殺しから身を守るため庭先のスチール製物置に立てこもり、洪水にあって絶海の孤島まで流されるというSFを描いている。この作品では当事わりあい珍しかったワープロの作字機能を駆使して、独自の造語を印刷して散りばめるなどの試みをみせている。ごく一部の熱狂的なファンはついたが、保守的な風土の中ではほとんど黙殺された。 17号の「松原へ」では、唐津市の名勝「虹の松原」を電動車いすでさまよい、車いすでここまで入りこんだのは自分が初めてだろうと感慨にふけっていると、一番奥深いあたりで砂にタイヤをとられて立ち往生する。長さ5km、幅1kmの松原内には人っ子ひとり見当たらず、深甚な恐怖にとらわれる。そこで下世話な天女に出会うが、地元の同人雑誌の女性作家から「女性が書けていない」と批評される。 しかし平成2年の「卑弥呼まで」(13号)では第20回「S氏賞」を受賞している。「S氏賞」とは佐賀県内の同人雑誌(7誌ほど)に発表された小説のうち、その年の最優秀作に贈られる、唐津市の有志S氏による私設文学賞で、賞金は10万円)。電動車いすで受賞したのは中島が初めてである。 これは平成元年の吉野ヶ里遺跡発掘フィーバーにともなって、社協のリフト車で訪れた電動車いすの男が、卑弥呼に乗りうつられた外国人女性の狂乱に巻きこまれ、ひどい目に遭わされながらも、電動車いすを置き忘れて駆けもどってくる、というハッピーエンドの幻想小説である。ちなみにこの小説が元で実際の吉野ケ里遺跡の物見やぐらに一般の見学客も上れるようになったのではないか、と言ってくれる人もある。 この小説について批評家の池田賢士郎氏は「地域における創造、という私たち(地方在住の作家たち)にとって何より大切な課題に真っ向から応えようとしていて、この点が佐賀においては稀有のことだと思われる。中島虎彦は(きびしい現実にしっかりと足を踏まえながら、想像力を解放するという)方法的な新機軸を生み出したのだ」と評価している。 その翌年には、「卑弥呼まで」にみられる吉野ケ里遺跡フィーバーをさらにパロディにした「ヨジノガリ五段活用」という戯文を発表して、「ヨジノガレ」「ヨジノガロウ」などという活用を編み出し、先の池田氏から「佐賀人が自らの手で流行語を生み出しうるとは思いもよらなかった」と喝采を得ている。ただし「吉野ヶ里フィーバーが過ぎ去ればさほど面白くは読まれまい」と釘を刺しておくことも忘れていない。 「へのもへ日誌」シリーズの他にも、「真昼の散歩者」「かれらの進化論」などという散文詩、。また失われた精子へのノスタルジーを描いた「地底の王国」というSFや、猫にまつわる言葉遊びを散りばめた大人のための童話「ねこづくしの原」や、差別語に対するヒステリー気味な対応を逆説的にパロディ化した「言葉たちを責めないで」などもある。中には自分の身体を一本の管に見たてて口から肛門まで旅をする「すかんぽ」などという壮大な実験作いや失敗作もある。 4号の「続続とと」(10万字)では、精神分裂病の入院患者が夜な夜な院内の公衆電話から「いのちの電話」に悩み相談をもちかけるが、相手の相談員は実は幼いときに自分を捨てた母親であったというからくりが仕掛けられている。全編電話の会話体で書かれた異色の小説である。「タイトルがふざけすぎている」という批判もあったが、「WE’LL」誌の編集スタッフでフリーライターの加藤薫氏は「だまされていることの心地よさ」と指摘している。 15号の「ある研修報告」では、メセナによる障害者海外派遣事業によってとある福祉先進地を訪れた頸髄損傷者が、その街の住人にはみんな身体のどこかに一つずつ「瘤」があることを発見する。それは身体中の公害物質や毒素を一箇所に凝縮して体外に突出させることで、その他の部分を清浄に保つための長年の知恵であり、これこそ本当の先進性であったという、荒唐無稽なSFである。ラストシーンでは「瘤塚」という奇っ怪な塔が出てきてペーソスを誘う。 23号には「キンパンジャーの日々」という短編小説集を発表している。これは佐賀の方言を「ゴットイ酒店」「ジュッタンブー広場」などとカタカナにして活用したもので、他誌に発表した「アスコンタイの人々」「オロホンポーの小景」などとともに、これら方言シリーズも中島の最近の取り組みの一つである。それについて先の池田賢士郎氏は「今はまだ誰も何もいわないが、いずれ評価されるときがくるだろう」と予言している。 「もちろんそれらの間には、そもそも創作の出発点であった短歌も脈々と書かれており、「吊るされる十首」「あらぶからあぶらの出なくなるとき」「キャベツ畑はちょうちょうだらけ」「超三流エロ劇画誌群」「額(ぬか)に釘」「聖子ちゃんを殴って」「爪に星の」「鳥瞰図」「私についての十章」「路上の虎」「いつも見るみどりとたまに見るピンクの対話」「丸ぼうろとマールボーロほどのちがい」「精神の鱶」「氷菓子ナタで割られよ罪と罰」などの抄が口語自由律で組まれている。これらはあくまで一行の詩として発表されていて、現代詩の側から幾分評価されることはあっても、歌壇からはほとんど黙殺された。 そうこうするうち、「ペン人」20号には「障害者の文学」という評論を一挙掲載する。これは古今東西の障害者たちの文学作品に的をしぼって、「お涙ちょうだい式」「どっこい生きてる式」「抵抗詩」「信仰の文学」「自然の写生」「想像力の世界」などに分析した無謀とも思える大作である。しかし大きな反響を呼び、「脊損ニュース」に二年あまりにわたって転載され、平成9年には人権問題を中心に扱っている東京の明石書店から企画ものとして出版され、中島にとって初めての印税収入をもたらした。地方の無名な障害者の書き手にとっては異例のことであろう。(詳しくはこの書評欄を参照)。この頃から他の雑誌や新聞からの原稿依頼も増えてくる。 評論ではほかに、私淑する歌人草市潤氏を端的に論じた「K氏極小論」や、都市部のブルセラ・ショップの流行をきわどく分析した「ぶるせら・バイバイ」や、平成11年の乙武くんブームを批評した「五体不満足の満足度」もある。また「ペン人」のシリーズ・コラムである「新7個のアンケート」では、ゲストの精神科医で「BOUGH」誌編集者の関口宏氏らとスリリングな議論を展開している。関口氏は中島について「嬉野の地に菩提樹のように根をおろしている」と評している。 一番最近の24号には自作の英訳俳句50句を和英対照で載せた「月のない夜の月見草」、25号には同じく自作の英訳短歌100首を載せた「夜明けの闇」を発表している。これらは中央の商業俳誌や歌誌や外国の識者にも寄贈されているが、俳壇や歌壇からは(俳誌「百鳥」主宰の大串章氏を例外として)相変わらず黙殺されている。 平成11年の25号のあとがきでは、同人たちの無関心にこらえかねたように中島は「ここらで発展的解消を遂げてもいいのではないか」と提言している。 それに対して「灯を消さないで」という声が主に外部からいくらか寄せられているのがせめてもの救いであろう。 ★ 書評 (煙男) 中島虎彦の専門領域(?)は、「口語自由律短歌」と「小説」である。そう本人は言っている。しかしその他にも詩、口語自由律俳句、散文詩、評論、大人の童話、ずいそう、など多方面にわたっている。それをある人は「節操がない」「書き散らしている」「まだ形成途上」と批判的に見るし、「どの分野も一定のレベルを保っている」「若いうちはいろんな可能性に挑戦すればいい」「そのうち的が絞られてくるだろう」と長い目でみてくれる人もいる。 中島にしてみれば「言葉をタネとしてつむぎ出す芸にはちがいない」と、ごく大ざっぱな自覚しかないようである。案外彼の本望は職人的な「文章家」とでも呼ばれることなのかもしれない。そんな中島もいつのまにか40代後半である。 中島の登場はまず佐賀新聞や西日本新聞の詩・歌壇への投稿からであった。その常連となったころ、選者の某大学名誉教授から「肉体的な不自由さがどこかしら限界となっている。先人のすぐれた旅行記など読んでみたらどうか」とアドバイスされたことがある。新聞の講評欄、いわば公衆の面前で罵倒されたようなものだった。ありがたくも苦い言葉であり、その後長らく彼の作品に影を投げ落とすことになった。 のみならず、ある合評会の席上では先輩の女性小説家から「うじうじしてないでさっさと立って歩け。女を抱け!」と面罵されたこともある。うしろから尻を蹴とばされたようなものだった。頚髄損傷で足腰のみならず性的機能までマヒしている者に向かって、「普通そこまで言うかなあ・・・・・・・・」とひとしきり腐らせられたが、それも「可愛さあまって憎さ百倍」とでも言うべき彼女なりの論法であることが、だんだんにわかってくるようになり、今ではむしろ感謝しなければならないと思っている。(もし頚髄損傷に対する無知からそんなことを言ったのであれば、名誉毀損罪ものである)。 あるいはまた「障害者の文学」という評論を出版したとき、やはり先輩の女性詩人や男性小説家から「作者の苦悩を万人のものとせよ」とか「これを書いたないば、後はもうなーんも書かんでよかごたるもん」などと言われたこともある。彼らもまた同人雑誌や県文学賞の常連であるからには、なかなか愛憎のこもった意見だと受け取るべきだろう。 障害者の書き手に向かってこれだけ遠慮なく批評してくれる読者をもつことは、実は至難の業なのである。中島に他の障害者の書き手より何か少しでも抜きん出ているものがあるとすれば、まさにこの点なのかもしれない。 このように若くして障害を負った書き手にとって最も大きく立ちはだかってくる壁は、「実体験の不足」という考え方であろう。ちゃんとした教育を受けていない、世間の荒波にもまれて働いたことがない、対等な恋愛をしたことがない、結婚して子育てをしたことがない、社会的責任を負ったことがない、などなど。そんな障害者たちに異性が書けるはずがないし、まっとうな人生など書けるはずがない、という根深い考え方である。そのためにどれほど多くの障害者の書き手が悔し涙を流してきたことだろう。 そこで、ある者は「お涙ちょうだい式」の悲嘆と回復への祈りを謳いあげつづけることだろう。ある者は「どっこい生きてる式」の奮闘ぶりを喧伝することだろう。ある者は革新的な抵抗詩の装いをまとって身構えることだろう。ある者は宗教的な祈りの文学へ耽溺することだろう。ある者は自然の写生に自らを仮託することだろう。ある者は想像力の可能性の奥ゆきを探る旅に出て行くことだろう。それぞれがやむにやまれぬ選択である。 中島虎彦の場合は最後者であったようにみえる。現実の障害や政治や未来にはほとんど何の幻想も抱かない中島が、文学に関しては幻想的であるというのは不思議なめぐり合わせである。そこでは精神の鎧を解きはなち、障害者などという枠組みを軽やかに超えて自由な世界へ飛び立つことができる。もちろん厳しい現実に足を踏まえた上での想像力でなければならない。その兼ね合いがなかなか微妙なところであるが、それは中島の企業秘密というものであろう。たとえば詩人の天沢退二郎はそれを「ある飛び越えが必要」と言っている。そのとき障害というものがまさに起死回生の触媒となるのかもしれない。 そうやって書かれた「九百九十九たす一羽鶴にまつわる神話」「生霊」「卑弥呼まで」「続続とと」「ある研修報告」というような作品に対して、かつて批判的だった人たちも一定の評価をくれるようになったものの、その一方で「幻想的な作風はしょせん現実からの逃避ではないか」と見る人たちもいる。あれから実体験だって積める範囲で努力してきたというのに。いったいどうすれば彼らは気が済むというのか。 そんなとき、シリーズ名の「へのもへ」という字面を、たて書きにすると鉄面皮な横顔にみえることに気づく。それを面白がって中島はあえて使いつづけているのである。そこには、障害者の創作が何かにつけて情緒的に語られるのを飽き飽きしたあげく、わざと砂のように乾いた「素」の言葉ばかり選んでは再構築していた一時期の中島の反骨が垣間見える。しかしそれも度を越すと反動になるから、いずれは克服していかなければならないだろう。 そうなると、「実体験などというものは文学(小説)にとって本当に不可欠なものなのか」という八つ当たり、もとい素朴な疑問も湧いてくる。たとえば宮沢賢治もカフカもセザンヌもゴッホも桶口一葉も十分に世間並みではなかった。むしろ今で言うパラサイト・シングルのようなものでさえあった。にもかかわらず彼らの芸術が今でも堪能されつづけているということは、芸術は世間的な実体験とはあまり関係ないところから生まれるのだ、と言い放つことができそうにも思える。要するに体験の量より質ということだ。 しかしまあ、そんな次元にいつまでもこだわっていてもしょうがない。世界は激越な勢いで変転しており、昨日の常識がきょうは紙くず同然という例は枚挙にいとまがない。文学的通念だってその例外ではありえまい。たとえば白人の先住民への搾取の歴史の上に成り立った作品や、男性の女性への偏見の上に成り立った作品や、健常者の障害者への差別の上に成り立った作品などは、今ではすっかり色あせてみえる。 かつての通念で評価されないのならば、障害者たち自身が新しい価値観をうち建てればよいではないか。インターネットの普及で新しい文学のあり方も模索されているし。そんな威勢のいい声も聞こえてきそうである。もっとも中島がそれに与するかどうかはわからないが。 そんな中島に対して痺れを切らしたように、「どうして中央に打って出ないのか?!」と背中を押し、尻を叩く人もいる。一文にもならぬ原稿をしこしこと書きつづける同人雑誌という営為が、しょせん井の中の蛙の自慰のようなものにすぎないのではないか、と映るのだろう。一応、中央の商業文芸誌や新聞にも寄贈しているのだから、初めからまったく色気がないわけではないのであるが・・・・・・・・・。 そういう辛口の意見の背後には、中島が26年前の自宅退院以後ほとんど母親の介護を受けながら(最近はヘルパーさんに肩代わりされているが)書きつづけてきたことに対する、街なかのアパートなどで厳しい自立生活を送る先輩障害者たちからの、不満げな眼差しも重なってきていることだろう。確かに「自立」の面からは今ひとつ物足りないことに、反論の余地はない。にもかかわらず、そういう生活の中からこれらおびただしい作品がつむぎ出されてきたのだ、という厳然たる事実をどう説明すればいいのだろう。強いていえば、障害者(の書き手)にとっては何よりもまず精神の自立が肝要であるということだろう。書きつづけるうちに何かが書き手を成長させてくれるものだ。 あるいは、「障害者モノばかり、もう読み飽きた。辛気くさいのはいいから、今度は障害とは何の関係もない主人公で書いてくれ」という人もある。確かに障害者モノは多いが、昭和57年の佐賀県文学賞三席を受けた「あをみどろ」のような小説もある。これは大学生の主人公が父危篤の電話を受けて、バスで生家へ帰り着くまでの心理の錯綜を描いたものである。その他「君はぼくの眼の中のリンゴだと歌う黒人盲目歌手の黒メガネ」(佐賀酒販新聞)という小品など、いくらかは書いているのだが、なかなかそこまでは目を通してもらえない。しかし、障害とは離れた主人公を設定して自由な想像力をはばたかすというのは、確かに気持ちのいいものである。今後はそちらの可能性も探られていくだろう。 それらこもごものの声に対する中島の返答は、どうも今ひとつ釈然としない。単に優柔不断で、派手なことが嫌いな性分なのか、それとも何か深い文学的確信でも秘めているのか、あるいは過去に何らかの啓示めいたものを受けてそれを後生大事に温めているのか。詳しいところはわからない。 たとえば中島の敬愛する宮沢賢治やカフカや松下竜一や簾内敬司や草市潤のような人たちからの影響をあげつらうこともできる。しかしそういう地方主義だけではひとくくりにできない何かがあるようなのである。そして中島自身まだそれをうまく言い表すことができないでいるようなのである。 いずれにしても、「中央と地方」「文明と自然」「想像力と写生」というような安易なニ極対立の構図からもう少し自由になって、「第三の道」とでもいうべき可能性が探られているようである。 「ペン」という武器、つまり権力をもっている者に対しては、たいてい世間の好奇な眼差しが押し寄せてくる。やつはどこへ行くのか? どこまで行くのか? 書くことで本当にしあわせになれるのか? とみんな固唾を飲んで見守っている。そういう意味では、「中島虎彦」とは障害関係者のみならず満天下にさらされたひとつの壮大な実験だということもできる。 いずれにしても、この錯綜した時代の中で、中島虎彦にとっては障害とともに書きつづけるという営為、ただそれだけが確からしいことである。ほかのことはみんな春の夜の夢のように淡く映っているのではないだろうか。子どものない中島が亡んだあとに、その作品が一篇でも残ってくれれば幸いである。 |
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