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| ★(書評、中島虎彦) 野田氏は1944年、三重県津市生まれ。自動車整備士の資格をとり結婚してから、1973年に「野田鉄工」を設立する。ワンマンではあったが、仕事も多く順風満帆の人生だった。それが10年後にクレーンの事故で転落して頸髄損傷(4,5番)となる。現在は愛知県瀬戸市の労災介護施設「ケアプラザ瀬戸」で暮らしている。 受傷直後は頸髄損傷につきものの体温調節障害に見舞われる。また何でも一人でやる性格だったため、排泄で人の手を借りねばならないことに人一倍苦しむ。イライラして妻に八つ当たりする荒んだ闘病生活を送っていたが、労災病院に移り仲間たちを知ったり、訓練室でリハビリとしてワープロを覚えたりして少しずつ生きる張り合いをみつける。 その間、心の支えとなっていたのは娘の成長と就職と結婚、そして孫の誕生であった。そうして1987年頃から口に絵筆をくわえて絵を描きはじめる。初めは水彩であったが、後には油絵にも挑む。絵を描いているときは体温調節障害がきれいに消えているという。ということはその障害があくまで精神的なものであるということだろう。 よく「星野富弘さんの影響ですか?」と訊かれるが、描きはじめた時にはまだ星野氏のことは知らなかったという。その意味では口に絵筆をくわえて描く先達の一人と言ってよいだろう。1998年には妻の奨めで三重県松坂市展に入選する。以後各地の公共施設などで絵画展をひらき、多くの人たちとのふれあいが広がっている。今では「絵のない生活は考えられない」というほど生き甲斐になっているという。 本の口絵部分には、これまでに描いた初めての「チューリップ」、娘の結婚式を描いた「ウエディングドレス」、初入選した「暁」、孫を描いた「まゆちゃん」、愛娘を亡くした夫婦の娘を描いた「微笑み」、兄の厚意に感じた「パフィオ」などが掲載されている。 作風は律儀な写生一辺倒で、水彩にしては色調もはっきりしている。というのも職員に絵の具をつけてもらうとき、細かく注文をつけたり色を混ぜてもらうのがはばかられるため、チューブから出した原色のまま塗ることが多いためだという。そういう事情を知れば、初歩的なレベルだなどという感想もうっかりとは口にできない。「暁」や「東尋坊」などはこの作風を突き詰めればスーパーリアリズムのような現代的な特質を作り上げられるかもしれない、という期待も抱かせてくれる。現在は後援会も出来ているという。 展覧会では絵の下に一番の協力者である義姉の田中妙子氏が詩を寄せている。いわゆるコラボーレーションの走りといってもいいだろう。たとえば「暁」などは野田氏も「自分の気持ちにぴったり」と喜んでいる。詩と画を自分で両方書くのは星野富弘氏をはじめ多くの例があるが、あくまでコラボレーションでゆくのも一つの特長となるかもしれない。 「暁」 あかつきとは 夜明けのこと すべての言い訳を 振り払って 前進しよう つらいのは 私だけではないはずだ |