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| ★書評
(中島) (筆者紹介) 成田氏は1970年、川崎市生まれ。母は会社経営。両親が共働きだったため、小学生の頃から自分で料理を作るなど自立心の旺盛な子どもとなる。小学6年で身長が168cmになり、スポーツ万能でいつも走り回っていた。しかし13歳のとき膝が痛むようになり、やがて両足がマヒして以後20回以上の入退院をくりかえす。 「横断性脊髄炎」と診断され、進級や進学もめどが立たなくなる。自暴自棄になり家族や看護婦や入院患者に当たり散らす。 とはいえもともとカラッとした性格だったため、いつのまにかすっかり車いす生活になじみ、病院のカンファレンス室を借りて参考書で受験勉強をし志望の高校にも進学した。高校在学中に運転免許をとり、辛いときはドライブに行くのが気晴らしとなった。卒業して障害者用の自助具などを作る会社に就職する。 そのかたわら23歳から勧められて水泳を始める。もともと陸上は得意だったが水泳は苦手だった。しかし水に入るとマヒの身体がふわりと自由になるようで、新しい世界に興奮する。障害者の水泳大会に出場し、いきなり大会新記録で優勝する。それから鉄アレイで腕を鍛えるなどトレーニングに励み、仙台での東北障害者水泳大会に参加し、メダルを取った帰り運悪くまた交通事故にまきこまれ、頸髄を損傷し左手もマヒしてしまう。 しかし今度は車いすの仲間たちのつきっきりの励ましのため立ち直りも早く、右手一本ながら不屈の精神力でまた水泳を始める。そうしてアトランタのプレ・パラリンピックを経て、1996年のアトランタ・パラリンピックに水泳日本代表(七人のうち)として参加する。見事2種目で世界新記録を出して金メダルを取る。しかし日本のマスコミはほとんど報じることはなく、口惜しい思いをする。 帰国してからは日本各地の小中学校や会社などから講演を頼まれるようになり、飛びまわっている。その中で駐車場やタクシーや駅やトイレについての厳しい指摘もする。その一方、日本テレビの編成局考査部に勤務する。 そのテレビ番組「愛は地球を救う」で鹿児島湾をタレントと一緒に遠泳したりする。そこで終わっているが、ちなみに氏は2000年のシドニー・パラリンピックにも参加し6種目で世界新記録を出して金メダルを取っている。その模様はテレビでもさかんに放送された。 成田真由美氏のシドニー・パラリンピックでの目覚しい活躍は記憶に新しい。本五輪での日本の金メダルは6個に終わったが、パラリンピックもそろそろ本五輪に組み入れるべきだという声も高くなってきた。そうなると日本のメダルは飛躍的に増えることとなる。それほど氏の競技者としてのレベルは世界的なものだ。氏はアトランタでの活躍にもかかわらず、日本のマスコミがほとんど報じなかったことに口惜しさを抱き、四年後を期していたのである。その熱意が通じたのであろう。 横断性脊髄炎のみならず事故で頸髄損傷にもなるなど不運にもめげず、けなげに頑張っている姿がテレビや新聞雑誌などでもパターン化されて取り上げられているが、そんなところはたいていの障害者たちが見飽きているだろう。しかし過日の出演では「レースの前は『フン、何よ、この私があんたたちなんかに負けるわけがないでしょ』と自分にあえて思い込ませるようにする。とってもイヤな女になってるんです(笑い)」などと暴露してみせている。 「けなげな障害者像」にいたずらにとらわれることも少ないようである。 ただ、パラリンピックには各国の貧富の差がそのまま選手のトレーニングや装備に表れて、成績に如実に反映してくるので、開発途上国などから異議が唱えられていることには何も触れられていない。日本だってほんの少し前までは開発途上国のようなもので、その中からみんなが懸命に働いて国を富ましめてきたのだから、あなたたちも頑張りなさい、それがバネにもなる、という考え方もありうるだろう。むずかしい問題だ。 日本テレビに勤務するにいたった経緯や、「愛は地球を救う」の形骸化や商業主義の偽善性の問題などについても一言説明がほしかった。 ★引用 「私は、とくに小学校や中学校からのおさそいはよろこんで引き受けた。というのは、障害者の気持ちをだれよりもいちばん知ってほしいのが、小学生や中学生の子どもたちだからだ。私がだんだん年をとっておばあさんになったとき、私を助けてくれるのは、きっと今の小・中学生のみんなだと思っている」 |