| ★ 書名 「車椅子からの旅立ち」 (鹿島
とも子 著、鎌倉書房、1989年) ★書評 (中島) (筆者紹介) 鹿島氏は歌劇団のダンサーで女優、事故から軽いセキソン様の症状を呈し、し ばらく車いすの生活を余儀なくされるが、数年後には回復して再び舞台を踏み、よ りいっそうのスポットライトを浴びる。 (内容) 父親の薦めで患部に光線を当てる民間療法などを試し、心理的なものかもしれ ないがそこそこの効果が見られたらしい。しかしその記述に関してはぼかしてある のでもどかしい。それよりも、スターとして華やかなライトを浴びていた者が突然車 いすの生活となった場合、マスコミや世間の注視を浴びて、普通の人よりも二倍 のストレスを感じるようだ。 親しかった人々の態度の変化などから人間不信にもなりかけたりする。しかし 彼女の場合は「もう一度舞台に立ちたい」という不屈の闘志と、やはり治るべき障 害は時がくれば自然に治るものらしく、再び踊れるようになるが、彼女の中では何 かが以前とは違ってしまったようで、本当に人間らしい生き方を探してゆこうとする。 それに対して「差別用語は使う者にその意識がなくても、使われる者には何倍 も敏感に響く」とか「誰かを犠牲にした表現の自由は真の自由とは呼べない」など という非難をはじめ、さまざまな賛否両論がマスコミに寄せられた。文学作品の中 では黙認されてきた歴史があるとはいえ、「文学表現の虚構性」と「実際に使われ る者たちの痛み」という側面とはそもそも次元の異なる問題であり、どこまでいって も議論のかみあわないもどかしさが残る。 協会も「てんかん」という言葉を使うなと言っているわけではなく、てんかんに対 する否定的なイメージを植えつけるような表現をしてくれるなと言っているのであ る。もちろん医学的に不備な記述があるなら早晩改められなければならないが、 これが不備であるかどうかはむずかしい。厳密にいって誰をも犠牲にしない表現 などというものがありうるのか、書き手ならば楽天的にはなれない。なぜなら「愛が すべてだ」という歌詞には誰も異論などなさそうに思えるが、脳性マヒの横塚晃一 は「われらは愛と正義を否定する」と宣言しているのであるから。 上の覚書をくまなく読むかぎり、筒井氏の作家として誠実な論理の展開に、素 人のてんかん協会などかないっこないと思わせられる。とはいえ現にこの事件を きっかけにつらい思いを味わう者が出てくるとすれば、その無念さはどのようにし て晴らされればよいのだろうか。もちろん精神衛生のためには有無を言わさぬ暴 力沙汰(言葉も含む)に訴える手もあるが、それでは一種の恐怖政治をよびおこ すだけだろう。 やはり健常者の側に、差別(語)を単に言葉の言い替えですまさず、それを生 みだしてきた長年の社会のしくみや、障害(者)や弱者をつい笑ってしまう根源的 な意識を問い直してもらわねばなるまい。 もっとも文学の場合、いずれご心配に は及ばない。不特定多数に向けてこう確言し、それが印刷されることで、筒井氏は こののち折りに触れて呵責に責めさいなまれつづけ、目に見えぬ熱視の針のむし ろの上を転がされつづけねばならないのだから。それが「書く」という営為にやどる 光と影なのである。 もちろん障害者の側にも課題はある。たとえば文学表現とは本質的にフィクショ ンであるように、好奇に言いっ放される世論というものもまた一種のフィクションの ようなものである、と笑い飛ばすぐらいの度量が「使われる者たち」には求められ てくる。実際、「無人警察」や「ピノキオ」や「ちびくろサンボ」や「白雪姫」などおとな しいほうである。 そのほかにも日本民族が未来社会でマゾヒスティックなまで奇形 化され、肉便器など白人の奴隷としてとことん差別虐待される沼正三の「家畜人 ヤプー」のように徹底したSFや、弱者に対して憐憫のかけらも示さないサドの「悪 徳の栄え」などを読むときには、フィクションというものの本質をよくよく肝に銘じて おかなければ、数ページも正視することはできないだろう。 |
| 著書の一覧 メニューへ戻る |