| ● 「足のない旅」(香川紘子著、日本図書センター、2001年、1800円) 「われらのうちなるイカロス」から 香川紘子 むかし むかし イカルスは海に落ちて死んだのではない われらのうちの中年肥りしたイカルスは 欲望の太陽にじりじりと翼のつけ根の蝋をとかされて 日常性の野の果てに 黒こげの隕石のような墓標を なかば土にめり込ませているのだ うまい詩である。表向きは人間一般の「理想を忘れて瑣末な欲望にうち沈む」さまを自嘲的に揶揄してある。障害のことなど何も触れていないが、イカロスが太陽にあこがれて飛翔したように、障害者が健常にあこがれて立ち上がろうと苦闘したすえ、社会的障壁に疲れていつしか夢を忘れ、自らの内に伏すさまに重ねあわされているようにも読める。うがちすぎだろうか。 いずれにしてもイカロスなど持ち出すところは、いかにも文学少女趣味から抜けきれていないと言えよう(苦笑)。作者にとって詩があくまで「知識」や「教養」や「自己顕示」としての一環で、まだ本当には地に足のついたものとして取り込まれていないのかもしれない。 さて、香川氏は1935年、姫路市生まれの脳性マヒ。疎開先の広島で被爆し二重の障害を負うこととなる。15歳ころから詩作をはじめ、「時間」「詩学」「想像」などの詩誌に所属する。詩集に「方舟」「魂の手まり唄」「壁画」などがあり、それらで三度も詩の芥川賞と言われる「H氏賞」の候補となっている。「障害者の文学」の中ではきわだった実力を備えている。 そのうちこの「足のない旅」は半生記である。幼い頃の体験についても容赦のない回顧がみられる。 「私の病気が現代医学から見放されたものだということが判明してからは、マッサージ、はり、灸は言うに及ばず、神霊科学研究所や、ほの暗い灯明がゆらぐ中に白髪の老婆の祈祷師が数珠をくっている怪しげな裏街道にそれていった。そこでいつも聞かされたのが、『信仰しなさい。そうすれば、あなたは歩ける』式の言葉だった。最初は単純にその言葉を信じて、『うちはある日、突然、靴をはいてとびまわれるんやわ』という幻想の中に住んでいたが、無邪気な子供時代が終わりを告げてからというもの、自分の肉体についてそうした幻想をいだくことが、ひどく馬鹿げた徒労に思えだした」 このあたりは多くの障害者に思い当たりのあるところだろう。同じ脳性マヒの俳人として先達である花田春兆氏には 「邪教にも通ひし汗の指圧にも」(折れたクレヨン) という句もある。「邪教」とまで決めつけるのは弊害があるかもしれないが。ヨーロッパなら「ルルドの泉」めぐりのような旅程もある。「マイ・レフト・フット」(クリスティ・ブラウン著)にはその興奮の渦と、自宅に帰ってからの虚脱感がまざまざと描かれている。障害者とその家族たちにとっては、一度は通らねばならない授業(料)のようなものかもしれない。 「そんな私の前に出現したのが詩だった。そこで私は、むなしいものに思えた肉体の回復の代わりに、詩作に自分の時間と能力のすべてを傾注したのだった。こうした意識の切り替えの操作の過程で、私は人間として当然もつはずの良くなりたいという健康な願望を、自分の中で実にきれいさっぱりと押し殺してしまったのだ」 これもまたありがちな選択肢の一つで、私などとりわけ身につまされる。一種の「現実からの逃避」だと言われても反論しきれない。上のイカロスの詩などそんな習作期に多作されそうな作品ではないだろうか。 文学趣味のない人なら障害者運動や絵画やスポーツや旅行や車やギャンブルなどにそれぞれ道を分かってゆくところだろう。そこで大なり小なり生きがいを見出し、現在に至っているという人がほとんどではないだろうか。ところが、香川氏にはさらなる転機が訪れる。 「ところが(アメリカの伝導者、T・L・オスボーン師の神癒伝導)集会に参加し始めてから数日経ったある日、背筋がしっかりして、すわりやすくなり、体が前後左右にぐらつくことも少なくなっていることに気づいて、『お母さん、奇跡が起こったわ』と大声で母を呼んでいた」 おや? と首をかしげる。「邪教」の類は卒業したのではなかったのか。その後も集会の類に出ていたというところに一抹の怪訝を感じる。 「それまでの私には、なんといっても詩と芸術が、考えられるかぎり絶対的な存在であった。他の生き方を知らなかったとはいえ、自分の手で築き上げた人工の城に住む小さな女王であった。(中略)ところがこの朝、私が詩の会を秋まで流会にする決断を下したことで、あれだけ心血をそそいできた詩でさえ、私にとって絶対でなかったという発見に愕然としながら、自分の人間としての限界を教えられた思いで、神の前に謙虚にひざまづく気持ちになった」 この発見はすさまじい。たとえば障害者運動に身命をなげうっている人に、「だけどそれは絶対のものじゃないんだよ」と宣告するような場合を考えてみればよい。一体どれほどの反発を食らうだろう。 祈祷や民間療法や新興の宗教などはあてにならないが、キリスト教(一派)のような世界的大宗教なら奇蹟も起こりうる、ということにあらためて気づいたということだろうか。もちろん信仰によって大いなる安心立命を得ている方はたくさんおられるし、それはそれでけっこうなことと思う。「謙虚にひざまづく気持ち」になられたのなら、創作のほうにもさらなる深まりが望めるかもしれない。 実際、「方舟」には次のような詩が見られるようになる。イカロスの詩よりは自らへ沈潜してゆくものがある。 「方舟」 1 あなたがわたしの心の防波堤をきっておしまいでしたので 神さま 重いものはみんな わたしの身体も 水の底に沈んで わたしの魂だけがあなたの上に浮かんでおります たぶんベッドも わたしのマンドリンも どこかの果てへ流れ去ったのでしょう 2 台風はいつもどこかで発生していた その道すじにあたったものは容赦しなかった そしてわたしはいつもきまって巻き込まれてしまうのだった そのスピードについて行けなくて わたしの椅子はひどく揺れきしみながらうしろの方を駆けていた それで 椅子にかけているわたしは 転倒したり 傾いた風景しか見たことがなかった いつからかわたしの椅子は台風の眼の中にすっぽりとはまりこんだまま 身体の揺れは止んでいた そして わたしは自分がのっかっている台風のことは忘れていた」 「西遊記」で孫悟空がお釈迦様の掌の中で暴れまわっていたようなものだろうか。自らの小ささや至らなさに気づいた者は、本当はとても強くなったのだということを感じさせられる。それにしても詩や芸術を捨て去りはしないまでも、あくまで最善の信仰より二の次、三の次として余技的にたしなむというのだろうか。詩や芸術というものはそんなに他愛ないものだったのだろうか、という素朴な怪訝が湧いてくる。それなら詩や芸術は世界中で何故こんにちまで営々と命脈を保ってきたのだろうか。香川氏の告白はそんな割り切れなさを感じさせもする。そもそも彼女の創作の動機というものが問われてくるような気がする。 氏は「障害者の文学」としては珍しく、三度もH氏賞の候補になりながら、惜しくもいまだ受賞には到っていないのだが、それはなぜかということを、これらの引用から考えていただければ幸いである。 そんなとき、たとえばある文芸同人雑誌の後記に載った一文を紹介させてもらおう。これは一体何だろうか。「詩」なのであろうか。詩にしては香川氏の作品に比べてはるかに荒削りだし整ってもいない。それともエッセーだろうか。エッセーにしても感情的すぎる。 いずれにしても「人間はなぜ書くのか?」という内なる問いに対する根源的な答えの一端がうっすらと浮かび上がってくるような気がするのは私だけであろうか。 草深い盆地の中学に通っていたころ 私はイジメられっ子だった 相手は番町グループ十数人だった 便所の裏や渡り廊下の隅へ連れてゆかれて かわるがわる殴られた 圧倒的な多勢に無勢だった よく殴ったのはKとMとYだった Kとは小学生のころ三人組を作っていたこともある 番長はあまり殴らなかった それより情婦のような彼女が寄り添っていた なぜ殴られるのかよくわからなかったが まったくわからなかったわけでもない 殴られながら 私は殴り返さなかった というより殴り返せなかった 殴られていたのは他にもいたし たいてい殴り返したりはしていなかった その中には番長にへつらうようになった者もいた どんなに殴られても決して頭を下げないことだけが かろうじて私の矜持だった 私はあらそい事がいやでいやでたまらなかった そのころ読んだガンジーの無抵抗主義などを 胸の中でほのかにくりかえしたりしていた そんな私を誰も助けてくれなかった しかし先生や親や友達にはチクらなかった 恥ずかしくてチクれなかった 殴られてくやしくなかったわけではもちろんない 相手にする値打ちもない奴らだと思おうとしていた 今にエラくなって見返してやろうと思ったりもした そのため一生懸命勉強した するとますます殴られた 私の坊主頭は若白髪で灰色っぽくなった けれどもそんな中学を私は一日も休まなかった なぜなら私の家はゴタゴタしていたからである 毎夜のように怒号が絶えることはなかった そんな家にいるより学校へ行くほうがまだましだった ついでに言えば給食がいただけたからでもある それは番長グループも似たり寄ったりであったろう はるかな六十年代半ばの話である 今の子どもたちの参考にはならないだろう それにしても・・・・・・・・・・・ どうしてあのとき一発でも殴り返さなかったのだろうと そののち私は夢にまで見るようになった 夢の中で私は逃げたり殴り返したりへつらったり許したり さまざまなシミュレーションを演じるようになった 夢から覚めるとうす闇の中で呆然とするばかりだった しかしどうすることもできなかった 殴り返せる者は殴り返せばよい けれどどうしても殴り返せない者もいる そんな弱虫でも生きてゆかねばならない ・・・・・・・それから幾星霜かがあって 私は電動車いすに乗るような身体になっていた それはまあ難儀なことではあったが 飛行機にも新幹線にもフェリーにも乗って 好きなところへ行けるご時勢であった しかし母校の運動会にだけはどうしても行けなかった そのあたりにはバリアーが張られているようだった 悪戦苦闘のすえ何とか行けるようになったのは かれこれ十四年もたってからだった 行ってみると別に何ということもなかった 校舎は白々と立て替えられていて 便所裏の暗がりも渡り廊下もなくなっていた そしてテント張りの見物人の中にKがいた Kは解体屋の社長になっていた Kの息子は応援団長をやっていた 私には妻も子もなかった それどころか詩人と呼ばれていた 向こうからなつかしそうに話しかけてきた 私もなつかしそうに受け答えした 話してみると別に何ということもなかった 数十年のこだわりは氷解したかのようだった それからしばらくして Kは近くの山の中で首吊り自殺をした 商売がおもわしくなかったという 私には悼むべき言葉も見つからなかった それ見たことかなどとは思わなかった あくる日私は葬式に行かなかった 別に付き合いがあったわけでもないし 電動車いすでは座敷に上がれないので などと誰にともなくぶつぶつ言い訳を呟いていた 代わりにMとYのことがにわかに気になりだした 彼らの消息など聞いたこともなかった 私はそんな自分が少しうっとおしかった そのためインターネットでのボランティアに精だした 精をだしすぎてお尻に褥瘡をこしらえた |