|
|
| ★書名 「上無」 18,19,20号 (岩井耕ニ編集、福田ヒロら著、かみむ舎、1998年〜2000年、400円) ★書評 (中島) これは広島県佐伯郡大野町を中心に発行されている文芸同人雑誌である。 「かみむ」と読む。古代音楽の音階の名前だそうである。編集者の嗜好がうかがわれる。 実際、古代神話の姫の悲恋話や平安時代の魑魅魍魎の幻想を描いた小説などが載せ られている。 同人は巌こうじ、倉みつ、松本正子、沼津久、福田ヒロ、櫂あつ子ら12人。発行は 年一回。会費3000円。本は買い取り。合評会は年一、ニ回の飲み会。 編集は岩井耕ニ(巌こうじ)氏。大野町のピーターハウス書店などに置いている。 いつでも批評と同人を募集している。 連絡先は、〒739-0424 広島県佐伯郡大野町前空3.15.31.岩井宛。 電話0829.54.1653。 創刊は1980年で、同人たちは現在40代から60代である。中には「隙間風一石」 「泰夢」などというペンネームも見られる。それはちょっと悪ノリだろう。ほとんど が健常な公務員やサラリーマンや主婦である。小説のほか旅行記や詩なども載って いる。 巌こうじ氏の「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)悲恋」(上・中・下 )は、 広島の雑誌らしく郷土の英雄吉備津彦(きびつひこ)の活躍を中心に、卑弥呼の死霊人 や大物主(おおものぬし)の神や穴戸武媛(あなこたけひめ)や御間城入彦(みまきいり びこ)天皇や土蜘蛛などという人物たちが登場し、ヤマトの国やヤマタイの国の存亡 をかけて暗躍する古代ロマンである。 主宰する実力者らしく、博学で文章もこなれている。その方面に関心のある方に はめっぽう面白い読み物に仕上がっている。ただ、古事記の記述などとの整合性につ いては、素人には量りようがないし、登場人物たちの名前が長たらしくて読みづらい ことは覚悟しておかねばならない。 また、客稿の陣五郎氏の「平安幻想」も大変洗練された文章で、エンターテインメ ントとしてすらすらと読ませる。平安の都の闇を跳梁跋扈した怨霊や妖怪に、現代の 錯綜した世相を重ねあわせているらしい。三冊の中では一番の秀作ではないかと思う。 ただ、古事記の世界も平安の都の闇も、あまりに私たちの生活からかけ離れてしま い、いまさらその物語を読まされる必然性というものが淡く感じられるのはどうしよ うもない。単に作者の碩学な趣味を押し付けられているような気もする。現代性を備 えた脚色が必要ではないだろうか。 私などは古い人間なので、文芸同人雑誌というものはあくまで無償の純文学をめ ざすもので、歴史小説や推理小説などのエンターテインメントはちょっとサブカル チャーっぽくて、真面目な読者からは二の次、三の次に扱われるだろうというような 先入観をもってしまっている。そういう人たちは愉しむための文学と割りきって、直 木賞でもめざせばよい。 そうかと思えば、新聞の婦人投稿欄のようなずいそうもあるし、童話になりそこ なったようなものもある。18号と19号の表紙は、松本正子氏の筆になるレオナルド・ ディカプリオの素描で、ちょっと見には女子高生のコミック同人誌か何かと見まちが う。やれやれと思っていたら、20号では古墳ふうの幻想的な写真が使われていて、こ れでようやく編集者の好みにもどったというところだろうか。創刊以来20年もの歴史 を誇るにもかかわらず、この雑誌はまだまだ玉石混交という感じがする。 もっとも、近年の文学界は純文学や大衆文学などという古めかしい境界線はほと んど曖昧模糊としたものになっているから、いろんな人が新しい試みに挑むことに違 和感などはない。それでなくても、純文学など今や若い人たちには見向きもされなく なっている。だからこういう雑誌は貴重なのだ。 それらの同人の中にただ一人の障害者(頚髄損傷)である福田ヒロ(本名・加木博 子)氏が混じっているので、あえて取り上げた次第である。加木博子氏は1961年、広 島県生まれ。社会人であった1984年に頚髄損傷(4,5番)となる。三年後にキリスト教 に入信。1989年頃から小説を書きはじめる。1996年に「上無」に入会する。 また英語塾主の顔ももつ。 この小説は彼女の障害とは直接関係ない。そこが「障害者の文学」としては貴重 である。というのも、障害者は障害についてしか語らないものだ、と思っている読者 も多いからである。 大学生の奈美は決して美しくない自分に自意識過剰気味である。同級生の勇樹を ひそかに慕い、友人の志保子を疑い嫉妬する自分に嫌気がさす。学校も休みがちにな り、アルバイト先の若い店員とも確執を味わい、辞めてしまう。その一方でサラリー マンの龍田と快楽だけの肉体関係をずるずるとくりかえしている。そんな自分をいよ いよ嫌悪して引きこもるうち、奈美は幻覚を見るようになる。そこでは天使アンダア や、悪魔のようなクロカゲや、天の軍勢やらが登場してきて壮大なスペクタクルを展 開する。 いわゆる「あちらの世界」へトリップしてしまうのである。その世界の荒唐無稽 で波乱万丈なことは、18号の「世界で一番」で自在に描かれている。この作品で氏は 想像力の翼を解放する術を見につけたといってもよい。それ以前の習作的な作品とは あきらかに異なる展開を見せるようになった。私もこの書評欄に取り上げぬわけには いかない、と思いいたった次第である。 「リョーキ」と呼ばれるその幻想世界があまりに素晴らしいために、彼女の精神 は次第に分裂の様相を呈しはじめる。大学での言動も支離滅裂になってきたのを、唯 一の友人と言ってもよい志保子が見かねて、自分の通っている教会に誘う。するとそ こで、下の引用のような悪魔の憑依現象にみまわれ、牧師たちに向かって恐ろしい言 葉を口走る。 まるで、「エクソシスト」の世界になってくるのである。それはそれで面白いの だが、ここでオカルトの世界へ入りこんでしまっては、文学にならない。また精神分 裂病という病気で片づけるのも面白くない。あくまでも現代人の知性の懊悩の問題と して突き詰めてほしい。 そのことは氏もよくわかっているようで、20号では再びキャンパス生活にもど り、以前と同じような悩み多い生活をくりかえす。インターネットのメーリングリス トでの会話が登場するのがわずかに新鮮で、そのほかはとりとめもないが、この小説 が私たち障害者にも重なってくるのは、他人の好意とりわけ信仰のすすめを受け入れ るのがいかに難しいものか、ということである。向坊弘道氏の自伝などを見ればわか るように、深い恵みを負って生まれ育った者ほど、宗教に対して初めは猛烈な生理的 抵抗を示すようである。 そののたうち回る苦しみに共感できる人は多いことだろう。その点、ほかの同人 たちの作品がソツはないけれど安全圏で自足しているように見えるのにくらべて、氏 の小説は文章や構成に粗雑さがあるにしても、真実に生きるために悪戦苦闘する青春 が率直に書きこまれていて、その正直さに好感がもてるのではないだろうか。「青臭 い」という人もいるだろうが、某総理など見ているとそういう青臭さこそが現代では 必要ではないかと思えるときもある。 氏はこの小説を書く段階ですでに篤い信仰をもっているのだから(精神的には安定 しているのだろうから)、この自堕落な懊悩はあくまでフィクションとして描かれて いることになる。つまり客観的に自分を突き放して見ているのだとすれば、なかなか したたかであると言わねばならない。 氏は自らの文学観について「読んでいておもしろいものが好き。とても自己中心 的。感動や思いを伝えること、人を楽しませたい、励ましたい、ということを目指し ていたが、長続きには限界がある、というのが正直な気持ち」と語っている。サービ ス精神が旺盛なことは、純文学の場合かえって仇をなすことが多いが、私などにもそ の気があるので(この書評欄が馬鹿ていねいであることがいい例だ)、いささか身につ まされる。それでも、頚髄損傷の女性で詩を書く人はあっても小説を書こうというタ フな人は貴重なのだから、なんとか書きつづけてほしいものだ。 ★ 引用 「天使に連れられてリョーキという世界へ行ってきた」 「(リョーキの)クロカゲに好きなようにされてるというか・・・・嫌がっているわたし と、正直いって喜んでる両方のわたしが」 「龍田とのくるったようなむさぼりを今すぐにも味わいたいのだ。(中略)けして美 しくもない彼との行為だと彼女は承知していた。むしろ、互いの敬意やいたわりどこ ろか、軽視を含んだ暴力まがいの行為だった」 「牧師と奈美は立ち上がった。奈美の一体どこにそんな力があるのか、胸ぐらをつか んで牧師の体を床から五センチ上方へ持ち上げた」 「いやだね。この中にいる権利があるのだ。この女もわたしを慕っているのだ。出て いくつもりはないね。この肉体ほど住みやすい所はないのだ」 「合理主義者奈美。(中略)人間疎外から逃れるためにセックスに走る彼女といって いいだろう。つまり『夢』の世界に何か意味あることを捜している。合理主義に『考 える』ならば、人間は原子の集まりにすぎず、石ころも同然な存在となり、人生は無 意味になりしらけるから、ただ、『感じる』ことのみに走るのである」 「洗礼をうけたらいいかな・・・・ああ、罪人だけど、そこそこの良い人間だよ。ふつう よ。みんな同じじゃないの。イエスさまのメッキはいらないよ」 「奈美さん、わたしたち被造物はルールを越えたところにずっといるとやがては滅ん でしまいます」 |