「かぎりなくやさしい花々」「鈴の鳴る道」
「速さのちがう時計」「風の旅」
「JOURNY of THE WIND TOMIHIRO HOSINO 詩画」



★書名 「かぎりなくやさしい花々」「鈴の鳴る道」「速さのちがう時計」
      「風の旅」「JOURNY of THE WIND TOMIHIRO HOSINO 詩画」

★書評 (中島)

(内容)

  これら五冊はすべて詩画集である。入院当初のパニックから一応安定期を
むかえ、妻や母の介護を受けて自宅療養の生活に入る。筆記訓練をかねて口
に筆をくわえて、お礼の葉書を書いたり漫画もどきを書いたりしているうちに、
やがて花の絵を描くようになる。

  花に添えた詩も上達してゆく。周囲の者から勧められて個展を開くと、それが
マスコミや出版ジャーナリズムの目に留まり、初の詩画集、それから相次いで
の出版となる。画のあいだに短い闘病記や近況も交えられていて、中には夫婦
喧嘩のもようなども正直に記されている。

  詩画集数冊の総売り上げは数百万部ともいわれ、いわば「一家に一冊」とも
いうべき浸透ぶりを見せている。英訳本からは中学校の英語の教科書「Sun 
Shine」に、「らん」など数点が引用されている。  


(中島評)

  このわかりやすい抒情が、胸に沁みとおってこない者はあまりいないだろう。
しかも作者の身の上を知るにつけ、驚異的なできごとに思えるとか、これだけの
詩画を紡ぎだす力はまさに天性の恵みを受けているとしか思えないとか、氏にく
らべると自分たちのありふれた日常や健康がどれほどありがたいことだったか
再認識させられる、などなど、静かな感動をよび起こしていることは周知のとお
りである。その意味で、氏の作品の果たしている社会的な役割は想像以上に大
きいといわねばならない。

  たとえば「よろこびが集まったよりも/悲しみがあつまったほうが/しあわせ
に近いような気がする」(きく、一九八一年)と氏が書くとおり、これらの「せつな
い」感情にはなにがしかの真実がある。「よろこびが集まった場所」でのあの身
の置きどころのなさを思い合わせれてみればわかる。氏の言い分には決して負
け惜しみとはいいきれない、静かな勁(つよ)さがあるのも事実である。「もう取り
返しがつかない」という思いはそりゃあ切ないが、そこに何やらうっとりさせられ
るものが同居していることは、健常な人たちにも思い当たりがあるだろう。思い
つくかぎりか弱くて無防備な姿にみえながら、いったいどうしてこのような存在意
義が生じてくるのか。

  即物をほしいままにしている現代人に致命的に欠けている知恵が、なにかし
ら隠されているのかもしれないと思わせる。のみならず、憲法第九条をいただく
わが国の進むべき未来をさえ暗示してみせる。できることなら、それを探りとっ
てみたいものだ。

  さて、彼の詩はあくまで「詩画」として花の絵に添えられて相乗効果をあげて
いるものであり、このように「詩」だけを抜きだして論じるのは正当でないことを、
断っておかなければならない。そこから逆にいえば、常に詩と画がセットになっ
ていて、詩としての自立ができていない、という恨みがある。いっそ一度画面を
全部絵で埋めるか、詩で埋めるかしてみれば、おのおのの限界や可能性が見
えてくるのではないかと思う。その例として「かぎりなくやさしい花々」の中に、彼
が病院の廊下ですれちがった女性のキツネのえり巻きを見て作ったという、珍
しく詩だけの作品がある。ここから開けてゆく可能性もあるだろう。

  「狐が/見ていた/ガラスの目玉で/見ていた/骨の無い首の重さに/自
分の尾をかみしめ/俺を/見ていた」(廊下で)なお、私は画については門外漢
だが、一見するところ素直で正確である。氏は寝台で横向きになったまま描くの
だが、よく「歪み」や「あく」がにじまないものだと感心させられる。それも氏の人
間性だろうか。

  もっとも、「絵はがきのようにキレイだ」とか、「植物図鑑のさし絵のようだ」と
いう印象からは抜けきれていない。それはつまり植物図鑑のさし絵が芸術とし
て批評されることがなかったように、星野の絵も芸術として批評されてはこなか
った、ということでもある。博物学ではそれらにようやく陽が当てられてきたとこ
ろだ。

  おなじ障害者の絵だけでいえば、メキシコの野太い“一本眉”フリーダ・カーロ
や、福岡のケイソン岡部文明のピエロの肖像をはじめとして、アメリカのジョニ
ー・エレクソン・タダ、イギリスのスティーブン・ウィルシャーの「DRAWINGS」、
原田泰治のメルヘン画や、「一日一絵」を描きつづける野崎耕二のスケッチ、は
らみちをの「母」シリーズ、小川安夫の漂泊の詩画、などのようにそれぞれ個性
的な例がすでに知られている。

  最近はコンピューター・グラフィックスで絵を描くケイソンの上村数洋のような
重度障害者も増えている。しかし、星野の場合はあくまで詩と画の相乗として威
力をふるっている。 また、彼が最重度の障害者であること、クリスチャンである
こと、受傷後妻帯していること、地方在住であることなどを予備知識として知らな
ければ、十分に作品を味わうことができないとしたら、それも不自由なことであ
り作品の自立を妨げている。

  さらに最近はマスコミの喧伝をへて、都会の刹那主義や大量消費やスピード
化などに対しての、文明批判としての意味合いを兼ねて読まれているフシがあ
るが、それも正当な読み方とは言えないだろう。

  さて、詩を一読すると、八木重吉ややなせたかしや佐賀の佐藤友則の詩を連
想させられる。あるいは、「銀色のあしあと」によると三浦からの影響もみられ
る。クリスチャンとして篤い人たちの作風は自ずから似通ってくるもののようであ
る。ひらがなが多用され、平明に行分けされたところが読みやすい。

  一般の忙しい人たちは、くだくだと長い障害者の小説なんか億劫がって読ま
ないだろうから、氏が「きれいな」花の絵とともに、誰にも「取りつきやすい」口語
自由詩を選びとったのは卓見であったといえる。折から、俵万智の「サラダ記念
日」も世に迎えられていたが、もし星野の詩も俳句や短歌のような伝統詩型だ
ったら、これほど読まれていただろうか。してみると、口語自由詩というのはある
意味で無国籍なのである。

  最近のように情報化社会が進んでくると、ひとびとの体験はひどく疑似的に均
質化してしまい、体験の差異に文学の素材を求めようとすると、特殊な性や外
国体験を持ち出すしかなくなってくると言われるが、そこにもうひとつ「特殊な障
害」も加わってくるだろう。なるほどバブル時代をピークに、文壇の「飽食」気味
の文学にはもはや「語るべき自己」がなくなりつつあるように見える。

  そのようなときおおよその重度障害者たちには、今まであまりにもないがしろ
にされてきたのが災いしてか幸いしてか、「語るべき自己」がかろうじてまだ残っ
ている。そこに存在意義が生じてくるというわけである。その時代錯誤ともみえ
る素朴な意思の伝達の叫びが、現代では不意のオアシスのように私たちの胸
のすきまに沁みこんできたりする。「心」と「言葉」の幸福な婚姻の例だといえよ
う。

  今どきそんなことは珍しいと思わねばならない。下手をすると、単なる「もの珍
しさ」から一時的な好奇で読まれるだけで終わる恐れもある。体験の差異に文
学の素材を求めようとすることの、それが限界であろう。

  星野の詩では言葉はとてもよく信じられている。「私の心が/あの飾りない音
色から/はなれすぎて/しまったのだろうか」と彼が書けば、なるほど「はなれ
すぎてしまったのだろう」と読ませられる。それでよいではないかと思われるだろ
うが、戦後の現代詩の成果をなぞった方なら、そう楽天的にはいかないことは
周知のとおりだ。事実、現代詩の批評の砦としての衿持を長らく保ってきた中央
の商業詩誌「現代詩手帖」で、星野の特集が組まれたという話は聞いたことが
ない。

  一時期マスコミの寵児となった山下清の画が画壇的にはいまだ正当に位置
づけられていないのと同じように、まがりなりにも総計数百万部も売れている詩
画集が存在しているというのに、それが日本の詩史にほとんど何の貢献もして
いないという事態は双方にとって不自然なことであるだろう。

  現代詩人たちは「思い出」「私の心」「風」「旅」「愛」「季節」などという手垢にま
みれた言葉たちを、いったんバラバラに解体して、その残骸の中から予断に毒
されていない「素」の言葉たちを拾いあげては、入念に再構築していくのであ
る。ロシア・フォルマリストたちはそれを「異化」と呼んでいるし、結核で二度の療
養体験がある仏のマルキシズムの批評家ロラン・バルトは、別の角度から「零
度」という視座を投げかけ、「言語というものはおのずからおのれ自身の破壊へ
と向かうものである」(「零度の文学」)と言っている。

  その作業がともすれば自己韜誨と見えたり、必要以上の照れとみえたりす
る。なるほどその悪弊に染まった亜流の作品が、大量に吐き出されていたのも
事実である。だからといって、数少ない「佳きもの」まで否定されてしまうのは、
あまりにも甲斐のない話である。障害者である星野とて、文学史の成果を無視
していいという法はない。いや、ひょっとすると、星野は障害をえてあらためて自
然と人間を見まわしたとき、それまでとは一変して見えたから、これらの言葉と
文脈はおのずから新しく「生まれ変わった」ものとして用いているのだ、という言
い分があるのかもしれない。それなら私にもうなずけるし、むしろ現代詩の書き
手たちのほうに再考を促してゆくことになるだろう。しかし、それをどうやって見
分けたらよいのか。

  言葉の探検を続けている現代詩人には、星野詩の安心感は一種の「思考停
止」状態にあるのではないか、と見えることだろう。つまり、星野詩の読者とは
「現代社会に疲れて、面倒くさいことは、もうこれ以上考えたくない」という人たち
なのではないか。先ほど「幸福な婚姻」といったばかりだが、うらはらに「結婚は
人生の墓場だ」という俚諺もある通りだ。だいたい現代詩人たちには「詩人です
ねー」などという呼びかけが、もはやほめ言葉には聞こえていないのである。

  スポーツの「精神主義」みたいな世界もうっとおしい。さきほど来の星野詩の
言葉と同様、「小さな支え」というような歌の題は、無意識の「おもねり」となって
いることに気づくべきであろう。そういう言葉使いはもう鮮度を失っているのだ。
なにも「愛」や「美」の中身までくさしているわけではない。あくまで言葉の現実と
して、たやすく風化するということである。その中で障害者たちだけが旧態依然
とした詩をつくりつづけていると、ただでさえ批評の風通しの悪い土壌では、腫
れ物に触るようにあつかわれ、やがては敬して遠ざけられるのがオチだろう。

  それゆえ、「自分たちだけの狭い価値観の押しつけである」「多様な世界が見
えていない」などなど、障害者内部からの批判もぼちぼち生まれてきている。 
「風の旅」などという思わせぶりなタイトルにしても、これはあくまで一つの例であ
るが「星野富弘の植物図鑑@〜」とでもあっさり付したほうが、先入観からくる肩
の力をぬいて読めると思う。シリーズものとして意外に長続きするのではないだ
ろうか。


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