「鬼気の人 ー 俳人富田木歩の生涯」


★書名 「鬼気の人 ー 俳人富田木歩の生涯」
      (花田春兆著、こずえ出版、1975年)

★書評 (中島)

  富田木歩は1898年(明治30年)ー1923年、東京向島小梅町生まれ。本名一
(はじめ)。両親は鰻の蒲焼きの店「大和田」を経営していた。しかし洪水の被害に
あうなど、貧しさから姉たちは芸妓となる。また聾唖者の弟は結核で早死にする。
そのため世間からは「殺生する商売だから、不具が二人も出たのだ」とひそかに噂
される。本人にしてみれば、なんともやりきれなかったろう。

  木歩も二才のとき高熱のため両足が麻痺する。おそらく脳性麻痺であろう。両足
だけ麻痺するというのは脊髄性のものかもしれない。そのため小学校にも通えず、
自室でイロハがるたやめんこを見て字を学ぶ。また、少年雑誌のルビで漢字を学ぶ。
もともと知識欲と向学心の旺盛な人となりであったのだろう。もし現代のパソコンの
ようなものがあれば大変な才能を発揮したにちがいない。

  やがて足萎えのまま、座ってもできる友禅型紙切りの奉公に出る。そんな日々の
なか句友土手米造を知る。土手は20歳で「吟波」の俳号で「小梅吟社」を掲げるよ
うな早熟な俳人であった。その後木歩は「やまと新聞」俳壇に入選を続け、臼田亜の
門下で生涯の友となる新井声風(俳誌「茜」主宰)を知る。それ以後、俳号を「木歩」
とあらため、俳壇の石川啄木とも呼ばれて、将来を嘱望される。

  足の先は細いが体重は14貫あったという。しかし弟と妹の結核が感染して闘病
するようになる。そしてあの1923年(大正10年)9月1日の関東大震災に遭う。
火事に巻かれそうになったので、声風に背負われて隅田川にとびこむが、あえなく
水死する。わずか26歳の不遇な生涯であった。

  その後、自分だけ助かった声風は慙愧の念に苛まれるようになる。そのため句作
もやめ、ひたすら木歩の句を広めることに精魂を傾けるようになる。その甲斐あって
昭和9年に「木歩句集」が出る。涙ぐましい友情のたまものであろう。芸術家の仕事
が残るには、必ずしも才能だけではなく、このように友愛に恵まれることも大きい。
とりわけ俳句の世界では師弟などの人間関係が根強い。
 作品には次のようなものが残されている。

「絵灯篭くらき道来し子の哀れ」
「簀の外の路照り白らむ心太」       
「背負はれて名月拝す垣の外」
「枸杞(くこ)茂る中よ木歩の残り居る」
「秋風や軒につるせし糸車」
「蜆(しじみ)売に銭替てやる夏の夕」
「鰻ともならである身や五月雨(さつきあめ) 」
「夕顔や病後の顔の幼なぶり」
「提灯をつけてくる子や茄子の花」
「夜寒さや吹けば居すくむ油虫」
「我が肩に蜘蛛の糸張る空きの暮」
「我が尻に似てしなびたる糸瓜かな」
「こほろぎや追い焚きしたる鍋の飯」
「母とゐて和讃うたふや夜半の冬」
「小春日や客まかせなる箱の銭」
「木の如く凍てし足よな寒鴉(からす) 」
「病人に懐炉抱かせぬ五月雨(さつきあめ) 」
「寝る妹に衣うちかけぬ花あやめ」
「裸児のムスビ食ひ居る庭南瓜」
「床ずれに白粉ぬりぬ牽牛花(けんぎゅうか)」
「蚯蚓(みみず)鳴くや肺と覚ゆる痛みどこ」
「宵ひそと一夜飾りの幣(ぬさ)裁ちぬ」
「向ひ家の鶉(うずら)声張る雪解かな」
「たまさかは夜の街見たし夏はじめ」
「蝙蝠に空明りさす湯浴(ゆあみ)かな」
「こほろぎや草履べたつく宵使ひ」
「熱さめて心さやけし蒸しの宵」
「時雨るゝや堤ゆきかふ荷馬車の灯」
「夢に見れば死もなつかしや冬木風」
「雨に鎖してわづかに涼し壁のもと」
「面影の囚はれ人に似て寒し」
「次の間の灯に牀頭(しょうとう)の冴ゆるなり」
「病み臥して啄木忌知る暮の春」
「たそがれの草花売も卯月かな」
「行人(こうじん)の蛍くれゆく娼家かな」
「病み臥すや蝉鳴かしゆく夜の門」
「遠火事に物売通る静かかな」
「なりはひの紙魚(しみ)と契りてはかなさよ」
「藤の実やたそがれさそふ薄みどり」
「女出(いで)て蛍売呼ぶ軒浅き」
「芒挿すや空も名残りの青さにて」
「葛飾や釣師ゆきかふお元日」
「秋風の背戸からからと昼餉かな」
「枯芦やうす雪とぢし水の中」
「穂架(ほさ)かげに唖ん坊と二人遊びけり」
「如月の大風に鳶鳴きにけり」
「行く雁を聞き初む燈下ぬくとけれ」
「棺守る夜を涼み子のうかゝひぬ」
「かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花」

  「不具と病気と貧困とが、彼の精神に、抵抗素を植えつけた。この強さが、今日の
多くの遊俳たちたの句から、彼の句を区別する」(山本健吉)

  「境遇への同情の心を傾けるより先に、彼の句の清純さは、われわれの襟を正さし
める。彼の短命は悲しむべきだが、己を生かしきったことは偉とすべきだ」(大野林火)

  声高ではないが、自分の境涯を身辺の風物に託して詠んでいる。そのつつましさ
が好ましい。

  俳句では、その制約上自然の風詠に仮託する形が多くなってくるが、その中に
富田木歩や村上鬼城や花田春兆らの「境涯俳句」の系譜がある。障害者が境涯をう
たうことは存在意義であり、ある意味で自明ともいえるだろう。障害者が境涯をうたわ
ず、不特定多数にまぎれて凌ぎを削っていこうとすれば、二倍、三倍の刻苦が必要に
なってくるだろう。その道を究めた人は少ない。

  花田氏の研究のほか、関連本としては吉屋信子著「底のぬけた柄杓ー憂愁の
俳人たちー」から「墨堤に消ゆ(富田木歩の生涯)」や、篠原暁子「ノーマライゼーショ
ン誌1999年9月号(文学にみる障害者像ー富田木歩)などがある。

  作者の花田春兆氏は1925年、大阪生まれ、本名政国。脳性マヒ。
小学生の時から大学教授の家庭教師がつくような恵まれた環境であった。昭和9年
市立光明学校入学。昭和22年「しののめ」誌創刊。句誌「万緑」同人。俳人協会員。
昭和38年「俳人協会全国大会賞」。日本の歴史の中で障害者の芸術家たちが果た
した役割を掘り起こすことをライフワークとしている。また日本の障害者運動の重鎮で
もある。

  現在は城西国際大学(千葉)講師で、「障害者の文化史」が専門。
句集に「端午」「天日無冠」。伝記小説に「鬼気の人ー俳人富田木歩の生涯」「心耳
の譜ー俳人村上鬼城の作品と生涯」「幽鬼の精ー上田秋成の作品と生涯」「殿上の
杖ー明石検校の生涯」(いずれも、こずえ刊)、79年に句文集「折れたクレヨン 身障
歳時記」(ぶどう社)、「日本の障害者 その分化史的側面」(中央法規出版)、
「福祉・複眼・福の神」(学苑社)などがある。妻裕子、一男一女の父。作品には次の
ようなものがある。

「就学猶予クレヨンポキポキ折りて泣きし」
「春立つや身に副うは春兆の号ひとつ」
「もの書きても七人の敵春迅風」
「歩行器に油さす母春の虹」
「花翳れば責道具めく訓練具」
「透明の杖欲しかげろふ中歩まむ」
「どこまで汀寄居虫歩き疲れたり」
「緑蔭無音少女らひらひら交す手話」
「マヒ真似て片蔭どこまで蹤き来る子」
「邪教にも通ひき汗の指圧にも」
「君の眼を恋ふや蜻蛉の眼の中に」
「君が呉るる葡萄一粒ずつに君」
「あてどなき読書遍歴雁渡る」
「不具よりも無収が苛責ちろろ虫」
「雲雀冲天不具なるも俯向くこと欲せず」
「実る秋新しき風吹きおこれ」

  ついでに、大家の村上鬼城についても述べておこう。
氏は一八六五〜一九三八年、東京生まれ。本名荘太郎。ホトトギス派初期の代表作
家。少年の日から聴覚障害で、代書人の仕事をする。座右の銘として「心耳」が有名
である。八人の娘と二人の息子に恵まれる。51歳で高崎裁判所の代書人をクビにな
り、大家族ともども路頭に迷いそうになるが、虚子門下の雄志とりわけ弁護士の名合
今更らが裁判所に抗議して、さいわいに復職なる。花田春兆らに伝記がある。作品に
は次のような名作が知られている。自然の写生は究極のところ「無私」に通じて行く。

「松立てて大百姓の門二つ」
「山畑に朝日大きや鍬始」
「暖く西日に住めり小舎の者」
「小百姓の飯の遅さよ春の宵」
「大門に閂落す朧かな」
「先祖代々打ち枯らしたる畑かな」
「闘鶏の眼つぶれて飼はれけり」
「夕霞烏のかへる國遠し」
「花散るや耳ふつて馬のおとなしさ」
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」
「五月雨や起き上りたる根無草」
「石の上にほむらをさます井守かな」
「晝顔にレールを磨く男かな」
「砂原を蛇のすり行く秋日かな」
「痩馬のあはれ機嫌や秋高し」
「殺さるる夢でも見むや石布團」
「冬蜂の死にどころなく歩きけり」
「鷹老いてあはれ烏と飼はれけり」
「鷹のつらきびしく老いて哀れかな」
「綿入れや妬心もなくて妻哀れ
「老鷹のむさぼり食へる生餌かな」
「露涼し形あるもの皆生ける」
「茨の實を食うて遊ぶ子あはれなり」
「五月雨や起き上りたる根無草」
「小鳥ゐて朝日たのしむ冬木かな」
「春寒やぶつかり歩く盲犬」
「生きかはり死にかはりして打つ田かな」
「ごうごうとして松の風」
「相撲とりおとがひ長く老いにけり」
「秋雨やよごれて歩く盲犬」
「行く春や親になりたる盲犬」
「月さして一間の家でありにけり」
「移されてさびしく藤の咲きにけり」
「世を恋うて人を恐るる余寒かな」

           (以上、「村上鬼城句集」大正六年、から)  




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