「はがき通信 誌」

【はがき通信 ネットワーク】http://www.asahi-net.or.jp/~sq6h-mkib/LINKS.htm


★ 書名 「はがき通信 誌」
 (向坊 弘道 発行、松井 和子、麩沢 孝・藤川 景 ら編集、1980年代から発行)

★書評 (中島)

(筆者紹介)

  向坊弘道氏と藤川景氏は前出、松井氏は元東京都神経科学総合研究所の医
師から、現在浜松医大看護科教授、著書に「頚髄損傷」がある。最近はカナダか
らベンチレータの専門家アイリーン氏を招いたりしている。

(内容)

  文字どおりはがき一枚の通信から始まった情報交換誌。「飛璃夢」とほぼ同じ
だが、こちらはベンチレータ(人工呼吸器)が必要なほどの高位ケイソン者が中心
なので、当然彼らやその母親の投稿が多くなっている。特に近年の交通事故では
高位ケイソンの発生する割合が高くなっているので、ベンチレータに関する記事が
多い「はがき通信」はいよいよ貴重になってゆくだろう。

  常連の投稿者はパソコンで作曲をしCDも出している佐藤哲也氏、車いすで山
登りもする瀬出井弘美氏、施設に入居しながらも結婚しているトドのおっさん氏、
家族のワゴン車で日本中を旅行したこともある鹿児島の後藤礼治氏、呉の詩人
の細川辰正氏、理科教師として復職した曽我部教子氏、「障害者の文学」(明石
書店)という著書をもつ嬉野温泉の文筆業中島虎彦、ベンチレータの事故でわが
子を亡くした笹井裕子氏などである。もちろんその他にもケイソンになりたての新
会員たちが毎号のように寄稿してくる。年会費1000円。

(中島評)

  清家一雄氏や金子寿氏の誌面作りには先端的な事例が多いが、「はがき通
信」誌の場合は、ベンチレータ使用で声も出せない寝たきりや、親と同居したり病
院や施設に入居したりしていても何とか満ち足りる方途を探ろうと工夫している例
などを掬いあげている。それだけ個別的になると投稿者たちの文章もおのずと借
り物ではなくなり、この手の冊子のなかでは出色となっている。

  これは「頸髄損傷」という労作をもち“ケイソンの母”とも慕われる医師松井和子
氏の編集力に負うところが大きい。確かについ最近までの「脊損ニュース」誌など
には、あまりにも立ち遅れた重度障害者をめぐる状況に、先端的な仕事をしてい
る同胞をとりあげて、なんとか会員たちの蒙を啓かねばならないという使命感もあ
っただろう。しかし、ある程度情報のゆきわたってきた昨今、より個別的で文学性
のあるタッチが求められているような気がする。

  向坊氏や曽我部氏や清家氏はあくまで「自分の一番やりたいこと」をわがまま
なまでに貫いているにすぎない。わがままなまでに、というところには好き嫌いも分
かれるだろうが、かれらは不毛の荒野に先鞭を記しつづけているのである。行政
や専門家からの評価はともかく、悩みをおなじくする重度障害者たちからは「あの
おっさん(おばはん)にはもうしばらく頑張ってもらわないと」などという声援も送ら
れている。欲をいえば、巷で「ひとり口は食えないが、ふたり口なら食える」と言わ
れるような新生活も体現してほしいものだ。もっとも、そこまでやりとげられると眩
しさのあまり一方でますます煙たがられるかもしれないが。

  ともすれば、その手の記事は一部の成功者の自慢話やおのろけになりがちで、
自立できないで悶々としている障害者たちは焦りをさそわれ、素直に読みだすの
には時間がかかるものだ。しかし自らも障害者運動に真剣にかかわっていると、
どうしても書かずにはいられないことが出てくるもので、そういう自然なほとばしり
なら説得力がある。だが組織が大きくなりすぎてひたすらノルマをこなすように発
行される冊子などは、会員のあいだでさえ書斎の隅に積まれたままとなるだろう。
「はがき通信」も他山の石とべきだろう。

  それはともかく、寄稿の大半はパソコンの通信かワープロ打ちで送られてくる
が、巧拙はともかく次第に文学的な風貌を帯びてきているところが興味深い。きわ
めて個別的な自立問題と格闘する話が、なまじの文人のずいそうよりずっとスリリ
ングであることは皮肉といえば皮肉だ。これは、頸髄損傷者連絡会の発足当時か
らの理論的指導者である東京の三沢了氏や今西正義氏の発言などにもつねづね
感じさせられることである。あるいは、筋萎縮性側索硬化症を背負ったイギリスの
理論物理学者ホーキング博士の最新の宇宙論における描写にしても、ときおり詩
的な風貌をみせる。

  かれらは詩の一篇も書かないが、障害とともに緊迫した生の局面はつねに詩
的でもあることを示唆している。現実への真摯な抵抗から詩が生まれる、という見
方もある。かれらの言動は星野氏とはまた別の意味あいで、重度障害者たちに刺
激を与えつづけている。意外にもそういうところから新しい「文脈」が生まれてこな
いともかぎらない。

  聖書で「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば多く
の実を結ぶべし」と逆説的に言われるように、障害者たちはかれら百態の苦悩を
身を削って「書く」ことで、初めて万人のものとすることができる。「書く」ことによっ
て初めてこのような重要な意味が顕わされてくるのである。それだけの覚悟をする
ことで、余分なものが削ぎおとされて「素」の状態になり、障害者の文章や創作が
はじめて「詩」や「文学」の出発点に立つことができるだろう。


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