| SSK日本せきずい基金レポート04 2002年9月3日発行 |
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講演会報告集 人工呼吸器使用者の自立 −−カナダの地域医療システムの日本への導入へ向けて−− |
【目 次】 本書について 第1部 講演「呼吸器使用者の自立生活」 ウオルト・ローレンス はじめに 受傷し呼吸器依存へ グループホームへ 社会の中で生きる 第2部 討論「カナダの経験から学ぶ」 大熊由紀子・桝屋敬悟・松井和子・平岡久仁子・大濱眞 ・呼吸器使用者への7つの大罪 ・受傷時の対応の相違 ・脊損センターの整備を ・当事者が患者をサポートする ・治療とリハビリの断絶 ・呼吸器使用者を在宅に ・呼吸器は生活の道具 ・在宅向けの呼吸療法を ・コミュニケーションが取れる呼吸療法を ・ヘルパーとの関係 ・ヘルパーは自分で選ぶ ・障害者が介護者を雇うことへ ・障害者と介護保険 ・ヘルパーの医療類似行為 ・自力排痰法 ・呼吸器使用者のグループホームを ・障害者に対する欠格条項 ・自立して生活することの意味 ・地域で暮らす医療ケアを 討論を終えて 松井 和子:呼吸器使用者・自立の7条件 平岡久仁子:リハビリプログラムの継続を 笠井 史人:高位頚髄損傷者のリハビリについて *会場アンケート *関連資料 朝日新聞:「せき髄損傷……日本では二重の不幸」 読売新聞:「脊髄損傷 外せぬ人工呼吸器」 呼吸器関連文献 |
本書について
本書は、2001年6月2日に日本せきずい基金が東京で開催した講演会「人工呼吸器使用者の自立」の記録である。
我々の調査では在宅呼吸器使用者の介護量は1日27時間にのぼり、その介護負担は大きく家族に依存している。呼吸療法も在宅向けの選択がなされているとは言い難いのが現状である。
このような中で、カナダからC2−3損傷の呼吸器使用者であるウオルト・ローレンス氏を招き、自立し社会参加を果たした障害者に接することで、日本における呼吸器使用者のQOL向上の方途を多くの方々とともに考える機会としてこの講演会を企画した。
講演会の開催に当っては、厚生労働省、東京都、全国脊髄損傷者連合会の後援を得た。また、車いす姿勢保持協会、潟jッシン自動車工業、潟ダ・メディカルの協賛を得た。ご協力頂いた当事者・家族の皆様、行政、医療、福祉関係者に謝意を表したい。
しかし、未だ現状は改善されていない。呼吸器使用者が実りある社会生活を過ごせるよう、さらに多くの方々と努力を重ねていきたい。
2002年8月
特定非営利活動法人 日本せきずい基金
第1部
【講 演】
呼吸使用者の自立生活
ウオルト・ローレンス
はじめに
総合司会 これより、フォ−ラム「人工呼吸器使用者の自立」と題する講演会を始めたいと思います。まず主催者であります、日本せきずい基金の大久保副理事長よりご挨拶を申し上げます。
大久保 本日はお忙しい中、お越しいただきありがとうございます。 私どもでは、「21世紀には車椅子から立ち上がろう」をスロ−ガンに掲げ、毎年講演会を開催しています。今年はカナダからウオルト・ロ−レンス氏をお招きし、人工呼吸器使用者の自立を成し遂げてきたカナダの地域ケアシステムについてまずご報告いただきます。
ついで、日本における呼吸器使用者の自立の可能性について、桝屋厚生労働副大臣を始めとするパネラーの討論へと続きます。我々障害者にとって実りある講演会にしたいと、スタッフ一同頑張っておりますので、最後までおつき合いのほどよろしくお願いいたします。
総合司会 本日は、カナダ西海岸のバンクーバーからウオルト・ロ−レンス氏をお招きしました。Thank you verymuch sure for coming for forum Mr. Lawrence.We are pleased .
ロ−レンス氏は今から33年前の17歳のときに、川での飛び込み事故により頸椎2番、3番を損傷され、四肢麻痺と呼吸器をつける生活を余儀なくされました。受傷後に、1年間の呼吸器離脱リハビリテ−ションを受けた結果、現在では夜間のみ呼吸器を使用しています。
さらに、今から15年ほど前の1985年には、人工呼吸器使用者6人の方々と、世界で初めてであろうと思われるグル−プホ−ムの生活を始められました。ロ−レンス氏は、そのシステムの構築段階からプロジェクトにかかわってこられました。その後結婚され、現在は、脊髄損傷病棟の常勤リハビリ・ピアカウンセラ−として、活躍していらっしゃいます。
このように、カナダで活躍されるロ−レンスさんを見て、なんと日本との違いが大きいのだろうと驚かされるわけですが、別に彼はス−パ−マンではありません。ところが、日本では人工呼吸器使用者の受け入れ医療機関さえおぼつきません。どうすれば日本でも重度の障害者が彼のように活躍できるのか、日本での障壁はどこにあるのか、そのへんに絞って、本日の講演会、パネルディスカッションを進行していきたいと思います。
最後に、ロ−レンスさん自身の発声にご注目ください。本当に力強い発声で、人工呼吸器使用者とは思えない、そんな言葉が聞こえるかと思います。では、ロ−レンスさんよろしくお願いいたします。Mr.W.Lawrence please.
▼ロ−レンス 大変ありがとうございました。このように皆さまの前でお話しできることは、とても大きな喜びであり、光栄でございます。これから私のスト−リ−を話していきますが、私が以前どうであったか、今どうであるか、そして、今皆さま方がどうであるかということを、比較しながら聞いていただければうれしいです。
受傷し呼吸器依存へ
1968年に、私はコロ−ナというところで、プロのマイナ−リ−グのジュニア・ホッケ−チームでプレイをしないか、という誘いを受けました。1年間、そこのホッケ−クラブで選手としてプレ−をしたら、大学の2年分の学費を出しましょうというお話だったのです。グディ・トレイドウェックスという人が所有しているホッケ−クラブでした。また、そのころは民間機のパイロットのライセンスをとろうと思ってそちらの準備もしており、飛行機にも乗っていました。
ある日、ホッケ−の練習の前に、ほかのホッケ−プレ−ヤ−たちと川で泳いでいました。1回だけダイビングをしたら練習に行こう、これが最後だと思って川に飛び込んだとき、受傷してしまいました。ここで私の人生は 180度転換してしまいました。これが私の人生でいちばん暗い、いちばん辛い時期でした。体を動かすことがとても好きで、運動をたくさんする力が私の全てだったのですが、それを失ってしまいました。
脊髄を損傷したあと、私の人生には何が残っているのでしょうか。これは33年前のことですが、「これからの人生はずうっと施設で送らなければいけない」と言われました。自発呼吸ができないので、呼吸器を24時間装着していなければなりませんでした。「施設から出ることは、かなわないだろう」と言われました。そのときバンクーバーのジョージ・ピアソン・センターという療護施設には36人の方がいましたが、全員が呼吸器依存で、私が施設に入った時には、もう16年前からとか、4年前からというように、期間はばらばらでしたが長期間いる人たちばかりでした。ここはオ−プンスペ−スという施設で、プライバシ−はありませんでした〔注:バンクーバーのジョージ・ピアソン・センターは263床の長期療護施設で、呼吸器依存患者の寝室が1棟ある〕。
家族が私を非常にしっかりとサポ−トしてくれました。サポ−トしてくれる友人もたくさんいました。その当時としては、政府も、その施設も、最善のことをしてくれている、と考えていたのだと思います。しかしながら、体のケアはしてくれましたが、精神面、心のケアはあまり考えられていませんでした。
グループホームへ
受傷後15年がたち、私は6人の仲間とともに、どうしてこの施設に住まなければいけないのだろうか、ということを考えました〔注:内、5人は呼吸器使用〕。センターにいる間、いろいろなケアを自分たちで学んで、できるようにもなりました。週末などは、施設を出ることもしていました。「ブリティッシュ・コロンビア州脊髄損傷者協会」(BCAP)−−これは「日本せきずい基金」と非常によく似た組織ですが−−とともに、6人で生活することを考え、いろいろなコストを計算してみました。
そして、この施設を出て、 5,000平方フィ−トの敷地のある「シェアード・ケア」というところに入りました。カナダでは、住宅の5%を車椅子で使用できるよう設計しなければいけない、という規定があります。そこで、その建物の1/4を障害者のグループホームに当てることになりました。政府は、介護者、アテンダントとかナ−スへの費用を、負担してくれました。私たちが直接彼らを面接して、私たちが雇用したわけです。
このシェア−ドケアを目指して、建築中だった建物の設計、それぞれの部屋の設計にもかかわりました。施設から出て、自分たちの家とするところに入るということは、私たちにすばらしい喜びを与えてくれました〔注:グループホーム「クリークビュー202」は1985年9月に完成〕。
施設にいるときには、いつもだれかに何かをしてもらっているという気持ちでいました。もちろん、してくれることのすべては、きちっとした根拠に基づいたいろいろな良い意図をもってやってくださったのですが、それでも私たちのニ−ズを完全に満たしてはくれませんでした。
個人としてコミュニティ−で暮らすようになると、「私たちがしてもらってきたことを、今度は私たちが社会に対して貢献できるんだ」「今までしてもらったことが返せるんだ」という気持ちを感じさせてくれました。それが人間の心だと思うんです。何か貢献したい、何かを社会に返したいということです。受傷後しばらくは、どうすればそういうことができるのか、よくわかりませんでした。施設で暮らしていると、そういう機会がないのです。
コミュニティ−では、いろいろなグループとか、プログラムの計画に参加することができました。いろいろな協会に属したり、障害者の団体や組織のメンバーになるばかりではなく、ほかのいろいろな団体のメンバーにもなることができました。例えば、何らかの形で会社の役員などとなることも含めてです。また、コミュニティ−での暮らしは私の健康状態が改善したばかりではなく、私はこういうことにも貢献できるんだということから、一人の人間としても、いろいろな面での向上が図れました。
このときは6人で2人の介護者を雇い、8時間ごとに3回、3シフトということで、1日24時間のケアが受けられるようにしました。政府にとっては、私たちが施設で暮らしていたときよりも、40パーセント低いコストで暮らせるということになったのです。これまでも申し上げてきたように、私の生活の質は10倍ぐらいよくなりました。しかし、私たちがこういう生活を始めるに当たって、カナダ保健省とか、政府のほかの省庁からは、非常に大きな懸念が示されました。どうしてこういう人たちが自立して生きられるのだろうかと。でも、いったん施設を出て私たちがこのような生活を始めると、これは大成功でした。ここには今までに世界18カ国からの訪問者がありました。どうしてこのモデルが成功しているのだろうかと、見学者がたくさん来ました。
そのグループホームでの生活がとても素敵だったので、私は、ここで永久に暮らそうと考えていました。しかしながら、1歩前に出ると、またその先がもう1歩遠くまで見えてきました。
私は、「障害を持った人の社会的な側面」という題名の学位論文を書いている最中の、ある女性に出会いました。6年後私たちは結婚し、アパートに引っ越しました。しかし結婚して私のアテンダント(介助者)よるケアをどのようにしたらいいのか、そのときはまだはっきりととらえていませんでした。行政に働きかけたところ、それでは、その費用は行政のほうで負担しましょう、ということになりました。つまり、施設にいるよりも、自立して暮らしたほうがコストが安いという理由から、政府が負担しよう、と言ったのです。
自分たちでスケジュ−ルを決めて、自分たちで雇ったスッタフの教育もしました。アテンダントとしての教育を受けないで、自分たちは全部プロなんだというふうに考えてケアに入ってほしくはなかったからです。つまり、自分の抱えているニーズに対していちばんわかっているのは自分ですから、自分のニ−ズにあったケアをしてもらうための教育をスタッフにしました。
8年後、私たち夫婦は郊外に家を買いました。そして、今は4歳の娘がおります。毎日、この子は私たちにいろいろなことを教えてくれます。
社会の中で生きる
過去10年間、私はカウンセラ−として、リハビリテ−ション病院で働いてきました。受傷した人が家に戻るに当たっての、いろいろなケアとサポ−トをしてきました。このリハビリテ−ションにおける私たちのチームのゴールは、新しく受傷した人たちに早くコミュニティ−に戻ってもらうこと、社会に貢献してもらうことです。チ−ムは、ドクタ−、PT、OT、ナ−ス、カウンセラ−、ソ−シャルワーカーなどから成っており、1年間に180人ぐらいの受傷者を診ていますが、そのうちの7〜8人が呼吸器依存の方です。呼吸器依存の方のゴールは、コミュニティ−に戻ってもらうこと、そして、アテンダントケアという個々のケアが受けられるようにすることです。つまり、アテンダントケアを受けて、その人が個々のケアを受けられるようになると、家庭に戻った場合、妻はあくまでも妻、夫は夫、娘は娘であり、家族がナースの役割を負うようになることはありません。
私は、カウンセリングをしているとき、患者さんの家族や友人と会うわけです。私自身が受傷したときには、もう望みはないと感じましたが、今は、望みはたくさんあるし、大きな望みがあることが私にはわかります。だから、障害を持っている一人ひとりの方に、「トンネルの向こうには明かりがあるんですよ」と言いたいのです。
私には美しい妻と、かわいい4歳の女の子がいます。また、仕事も持っています。私はブリティッシュ・コロンビア州において、車椅子でアクセスできるブランドビジネスを持っています。
私自身を振り返ってみると、「自分がだれか他の人に代われるものなら代わりたい」と感じていたときがありました。そのときは、まったく希望はなくて、本当に絶望的でした。でも、今は、自分の人生はだれのものとも取りかえたくないと考えています。とても豊かで、非常に実り多い人生だと思っています。とても恵まれている、神の恩恵を受けている、と感じています。
これは、家族や友人、また病院や行政などいろいろ関係した方々の理解に負うところが大きいのです。つまり、このようにコミュニティ−に戻って来たということ、そして今度は自分が得てきたことを社会に還元していきたいというように、前向きに動くことができるようになりました。これは私のみではなく皆さま方にもできることですし、これからはできるようになると思っています。皆さま方のサポ−トをしてくださるたくさんの方々を見ると、やはり今日、日本においても、私たちと同じような方向に動いていくのだというふうに感じています。
私は、皆さま方からすでにたくさんのことを学ばせていただきました。またこの機会にいろいろな意見の交換をしたいと思っています。ありがとうございました。
総合司会 Thank you very much Mr. Lawrence.