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■ 「もう一度歩きたい 第5部 再生医療最前線」
    (読売新聞・東京多摩版に2004年8月〜9月に掲載)

 脊髄(せきずい)などの神経細胞は一度損傷すると、二度と再生することはないと考えられてきた。ところが、一九八〇年代から適切な環境のもとでは、損傷部の細胞が再生することが報告され、損傷脊髄の治癒も現実味を帯び始めている。第五部では、脊髄再生に向けた最先端の研究や今後の課題を追った。(山田博文、吉永亜希子)


(1)慢性期の患者に希望


中国で鼻粘膜細胞移植

 「だまされてもいい。日本にいて何もしないより、はるかにましだ」。熊本県に住むKさん(62)は今年三月、藁(わら)にもすがる思いで北京へ向かった。

 Kさんは二〇〇一年十月、第八胸髄(T8)を傷め、車いす生活になった。専門病院で週四日、一回一時間弱のリハビリに励んできたが、効果が現れないことに悩んでいた。

 昨年秋、北京首都医科大の医師が脊髄損傷者に鼻粘膜細胞(OEG)の移植手術を実施していることをネットで知った。現時点では安全性や有効性は未確認だが、「少しでも効果があるなら」とリスク覚悟で手術を受けることを決意した。




 手術後、Kさんの足に感覚が戻っているかどうかを
調べる医師(北京の北京首都医科大で、Kさん提供)

 ◎ 損傷脊髄の再生医療で現在、唯一行われている臨床治療がOEG移植だ。同大の医師は二〇〇一年秋から三百数十人の中国人にOEGを移植した実績を持つが、術後の効果を長期的に調べた結果は発表されていない。今年二月にカナダで開かれた学会でも、医師は各国の研究者を納得させる説明はできなかった。しかし、風評を聞きつけた世界中の患者が医師を頼って北京を訪れている。

 では、どのような手術が行われているのか――。Kさんは手術前、損傷部の上下から、中絶胎児から採取して培養したOEGを五十万個ずつ注入する、と説明された。手術後、T8の下、背中の真ん中に約十五センチの傷跡が残った。Kさんは「結局どこに細胞を注入したかわからない」と言う。

 麻酔が切れた直後から、傷口に激しい痛みを感じた。「死ぬかもしれない」ほどの痛さで、何も食べられなかった。微熱が続き、胆のう炎にもなった。だが医師は、手術翌日から「動く」イメージを持って一日約五時間、足を動かすようにリハビリの指示をした。一か月後の四月中旬に帰国、費用は滞在費や通訳代を含め約280万円かかった。
 手術から約五か月半がたち、Kさんは「手術前は石の上に自分の上半身が乗っているような感覚だった。ところが最近は、右足だけだが、ひざのあたりまで力を感じる」と語る。そして、「それが手術の効果なのか、長時間リハビリを行うようになったためのものか、判断できない。でも毎朝、何か良い変化が起きるんじゃないかと楽しみ。それが心の支えになっている」とも話す。

 ◎ 脊髄損傷患者支援団体の日本せきずい基金(本部・府中市)は六月、北京でのOEG移植手術について、長期成績、注入細胞の安全性、痛みなど副作用発生の有無がいずれも不明として、妥当性を評価することはできず、「現段階では推奨すべき治療法ではない」とする見解を明らかにした。一方で、この手術を受けた日本人は十人に達し、さらに検討している人も多い。

 ただ、同基金、さらには研究者も再生医療におけるOEG移植の可能性は認める。それは、同医療の恩恵が乏しいとされてきた慢性期患者を対象にしているためだ。安全性や有効性、OEGの入手先などクリアしなければならない課題は多いが、慶応大学医学部の中村雅也講師(整形外科)も「非常に有効な治療法になる可能性は十分ある」とし、オーストラリアとの共同研究を始めている。


(2)神経幹細胞移植を研究

慶大、サルの実験で効果
 慶応大学医学部(新宿区)で、神経幹細胞を、損傷した脊髄(せきずい)部分に移植し、神経を再生させる研究が進められている。世界でも同大だけのユニークな研究だ。

 研究を手がけるのは岡野栄之教授(生理学)、戸山芳昭教授(整形外科)、中村雅也講師(整形外科)を中心とするグループ。以前は、中絶胎児の脊髄を、損傷脊髄部分に移植することを考えた。しかし、臨床応用には、一人の患者に対し、約十体の胎児脊髄が必要とわかり、実現不可能と判断。そこで着目したのが神経幹細胞だった。一度、神経幹細胞が得られれば、培養して未分化のままで増殖できる特質がわかったからだ。

 また、再生医療で注目されている胚(はい)性幹細胞(ES細胞)と比べてみても、神経系に分化することが運命づけられた細胞であり、移植後に腫瘍(しゅよう)になったり、どんな機能に分化するかわからなかったりという不安が少ない点でも優れているという。



ラットでの実験をする中村講師(奥)と研究室の
メンバー(新宿区の慶応義塾大学医学部で)

 ◎ グループは一九九八年ごろから、神経幹細胞を脊髄損傷部へ移植する実験に着手。二〇〇〇年には、成体ラットの頸髄(けいずい)を人為的に損傷させ、細胞を移植すべき時期を確かめた。損傷直後の移植では、脊髄再生に不利な細胞に変化してしまったため、損傷後九日たったラットに改めて移植し直した。すると、神経細胞などに変化し、運動機能の回復が明らかに認められた。

 さらに〇一年、同様に脊髄を人為的に傷めたサル五匹に損傷九日後、ヒトの胎児から採取して増殖させた神経幹細胞を移植。約二か月後には、移植したすべてのサルの腕の筋力と自発運動量が、移植しなかったサルの約二倍にまで回復したことを確認した。現在も経過観察中だが、米国の他の研究グループからは「今すぐにヒトに応用しても安全面で不安はない」と言われている。


 ◎ しかし、実際にヒトへの臨床が行われるまでにはいくつかの課題がある。
 まず、神経幹細胞をどこから採取するか――。成人患者自身から得る方法もあるが、増殖能力の不足などの懸念がある。中村講師は「現時点では、中絶胎児から得た神経幹細胞が分化能力などの点で臨床応用に一番効果がある」と説明する。この場合も、他人の細胞であるがゆえの拒絶反応の問題は残る。

 さらに、中絶胎児を使うことの倫理的問題――。こうした問題をクリアしなければならず、中村講師は「胎児由来のヒト神経幹細胞を用いた臨床試験が行えるよう、運用指針を一刻も早く制定する必要がある」と訴える。

 この数年で神経幹細胞などを使ったヒトへの臨床が始まることは確実だろう。ただ医療の進歩で神経が再生されても、関節が動かなくなっていたり、残存する筋肉が弱っていては効果が少ない。中村講師は「将来『歩く』ためには、今できるリハビリをきちんと行うことが重要」と指摘する。

 神経幹細胞の移植は、現状では、損傷直後の急性期の患者を対象にした研究だが、同大では将来的に症状が固定した慢性期の患者への対応も視野に入れているという。


(3)骨髄間質細胞を使う

臨床応用へ準備進む
 「えっ、骨髄間質細胞を使って……」。昨年十二月、関西医大(大阪府守口市)の倫理委員会が脊髄(せきずい)損傷患者の臨床治療を行う計画を承認した、というニュースに、日本せきずい基金(本部・府中市)の役員らは驚きを隠せなかった。

 移植するのが従来有力視されていた「幹細胞」ではなく「骨髄間質細胞」で、さらに「二〇〇四年二月にも実施」と臨床開始が目前に迫っていたためだ。「『国内初の実施』前に詳しい内容を知りたい」――同基金の大浜真理事長らは早速、関係者と接触することにした。


 ◎ 今回の研究は、京都大の井出千束教授(機能微細形成学)、鈴木義久助教授(形成外科)らが損傷直後のラットで実験効果を確認した。それを月平均二人の脊髄損傷患者が運び込まれる関西医大病院で、同医大の中谷壽男教授が臨床応用することになったのだ。

 では、どのような手術が行われるのか。中谷教授によると、手順は次の通り。
 受傷直後、ICU(集中治療室)で脊椎(せきつい)保護のため本人の腸骨を使った固定手術を行うが、この際、腸骨と併せて骨髄も採取する。その骨髄を約二週間培養した後、背中から針を刺して髄液中へ注入。その後、培養細胞はある物質を出し、数週間で消滅する。ある物質は特定されていないが、これが損傷部に働き、損なった神経細胞の修復を促す――というものだ。

 治療には、「骨髄を採取して培養する」「それを注入する」の二段階で医師が十分に説明し、患者の同意を得ることにしている。

 鼻粘膜細胞(OEG)や神経幹細胞と比較すると、自分の骨髄を使うため、倫理的な問題はなく、拒絶反応のリスクもない。治療の際に直接、損傷部に触れることもないため、追加的苦痛や二次損傷、さらに移植した細胞が腫瘍(しゅよう)化する恐れもない。

 ただ現状では、この治療の対象となるのは新たに受傷した急性期の患者に限定される。症状が固定している慢性期の患者では、損傷部をはく離、露出する操作が必要で、その際、再び損傷部を傷つける懸念があるためだ。中谷教授も「残念ながら、現時点では慢性期の患者さんへの移植は想定していない」と話す。


 ◎ 今年一月中旬、京都大、関西医大関係者と日本せきずい基金役員が都内で会合を開いた。

 基金側は、ラット実験からサルへの実験を飛ばして、人体応用する計画であるため、有効性や安全性に問題がないか、懸念を表明した。医師側は、ラットで運動機能が向上した試験結果を根拠に、「一定の有効性は期待できる」と説明。その上で、二大学としてはサルの脊髄を人為的に損傷させることは倫理的にできないため、健康なサルで安全性を確認したことを明らかにし、臨床開始前に公開セミナーを開催することを約束した。

 医師側はまた、国が検討中の再生医療指針で細胞培養に関して設定される厳格基準をクリアできる設備が必要と判断、同医大倫理委への再申請を準備しており、臨床は延期になる見通しを示した。

 臨床応用は依然行われていないが、京大で現在、培養細胞を注入した際に作用する物質の特定などの研究が進められている。中谷教授は「治療全体に第三者の視点を入れるなど、情報公開をきちんとするシステムを構築し、どこに出しても問題視されない臨床応用を行いたい」と話している。


 ◇

 【骨髄間質細胞】骨髄は、造血機能を持つ細胞とそれを支持する細胞からなり、後者は間質細胞と呼ばれる。骨細胞や軟骨細胞、神経細胞などに分化することも明らかになり、再生医療で研究者が注目している。


(4)議論続く臨床指針



「もう一度歩ける日が来ることを期待する」
と話す大浜真・日本せきずい基金理事長

患者らの思いは複雑
 東京・霞が関の経済産業省別館で八月二十六日、神経幹細胞などヒト幹細胞を臨床研究に使うための指針を定める国の専門委員会が開かれていた。

 二〇〇二年一月から二年以上にわたってやりとりが続いており、二十一回目のこの日も、中絶胎児の臨床利用要件が話し合われた。しかし、再生医療の将来を左右する重要な指針となるだけに、なかなか議論は進展しない。

 「指針があれば、すぐにも人間への臨床に入れるレベルまで研究は進んでいる」という研究者やそれに望みをつなぐ脊髄(せきずい)損傷患者は多い。関係者の間では「年内にも指針制定」という声もあるが、実際の見通しは不透明だ。「一日も早い指針制定」が待たれている。


 ◎ 同じころ、日本せきずい基金(本部・府中市)の大浜真理事長は、中国で鼻粘膜細胞(OEG)の移植手術を受けた日本人慢性期患者の情報収集に追われていた。その数は今年二月以来、すでに十人。同基金としては、安全性などの観点から「推奨すべき治療法ではない」との考えを表明した。だが、大浜理事長個人としての思惑は複雑だ。自らも三十年前の頸髄(けいずい)損傷事故で手足が動かない生活が続いている慢性期患者だからだ。

 「再生医療が進歩しても、自分らのような患者は(歩けるようになるのは)無理だろうとあきらめていた」。そこへのOEG移植の情報だった。「自分も片手だけでも動くようになれば、どれほどいいかと思う。患者が飛びつく気持ちはわかる」と本音を漏らす。

 しかし、安全性などが確認されていない現状で、万一、患者が死亡するなどの事態に陥ったら……。一九六八年の国内初の心臓移植では、手続きなどが問題視され、再開までの約三十年間が「空白」となった。患者にとって、研究の停滞は最も避けたい。

 今後、同基金は中国で移植を受けた国内患者に協力してもらい、磁気共鳴画像(MRI)などを使って、神経細胞の成長を定期的に追跡調査することを検討している。

 大浜理事長は、「神経細胞の成長など、実際に効果が確認できれば、さらに安全性に配慮してもらうように中国側に要望する。国内で臨床が始まらない現状では仕方ない」と話す。


 ◎ 大浜理事長はかつて、冒頭の国の専門委員会に参考人として招かれ、患者の立場から、次のように意見を述べた。「人生の途上の一瞬の事故がもたらしたもの、それは人の『社会的な死』に等しい。意識が戻った時は手も足も動かない。食事や入浴、排せつも人手に委ねる精神的苦痛……。介護のために家族の生活をも奪っていく。二十代で受傷すれば、半世紀もその状態で生きなければならない」

 こうした現実が脊髄神経再生を渇望する根底にあることを示したうえ、「指先を、そして上腕を動かし、立ち上がること、再び歩き出すことを実現したい」と訴えた。

 これまで「不可能」とされた脊髄神経の再生。大浜理事長は、二十一世紀前半の近い将来、いや十年足らずで神経再生の研究が進み、もう一度歩ける日が来る、と信じている。


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 【国の専門委員会】正式名称は「厚生科学審議会科学技術部会ヒト幹細胞を用いた臨床研究の在り方に関する専門委員会」。生理学、生命倫理、法学などの専門家十七人が委員を務め、二〇〇二年一月から二〇〇四年八月までに計二十一回の委員会が開催されている。再生医療を応用した移植治療や、新薬の開発などを管轄する厚労省が設置した。

(おわり)