皆さん、大変ありがとうございます。ここでお話し出来る機会を頂き、大変ありがとうございます。 ここ2〜3年「家族の価値」について多くのことが語られてきました。 私は事故にあって受傷して以来、私達は全て家族であり、全て等しく価値を持っているということに深く思い至るようになりました。もし、そうだとすれば、即ちアメリカが実際、一つの家族であるとするならば、私達はこの家族の多くの成員が傷ついていることを知らなければなりません。5人に1人が何らかの障害を負っているのです。皆さんの伯母さんがパーキンソン病かもしれません。あるいは隣人は脊髄損傷者かもしれません。兄弟にエイズ患者がいるかもしれません。もし「我々は皆家族」という立場に立つとすれば、私達はこのような事態に対して何かを為していかねばなりません。
まず、第一に申し上げたいことは、我が国はいかなる種類の差別も許していないということであります。それ故に「障害を持つアメリカ人の法(Americans
with Disabilities Act、ADA)」が極めて重要なのであります。この法はいかなるところにおいても尊重されねばなりません。これは建造物だけでなく、人々の心の中の障壁をも取り壊す「公民権法(Civil
Rights Law)」なのであります。
その目的は、障害者が自由に建物に出入り出来るだけでなく、社会のあらゆる機会に参加出来るようにすることにあります。今、私は、我々の国が、障害者の自立生活を支え、その介護にあたる人々に全面的なサポートを与えるにちがいないと強く確信しております。勿論、国家予算のバランスは考えねばなりません。そして私達は使う1ドル1ドルを大切にしなければなりません。しかし私達は同時に、私達の家族のケアを引き受けねばなりません。人々が必要とするプログラムを切り捨てるわけにはいかないのです。
ついで、障害に関して私達がなしうる最も賢明な方法の一つは、難病を予防し、治療するための研究に資金を投下することであります。我が国は既にそうした長い歴史をもっております。私達は問題にぶつかった時、必ずその解決を見いだして来ました。私達の科学者達は、これからも一層それが出来るはずです。彼らにチャンスを与えねばなりません。それは、研究のためにより多くの資金を投ずる、ということを意味します。 今、アメリカには25万人の脊髄損傷者がおります。そして政府はこれらの人々の生活を支えるためにだけで年約87億ドル費やしております。しかし、彼らの生活の質を実際に高め、公的支援なしで済むようにし、さらには治療していくための研究には、国全体で年たった4000万ドル投じているにすぎません。私達はもっと賢明になり、もっと手際よく事を進めなければなりません。今日研究に投下される資金は、私達の家族の成員の明日の生活の質を規定することになるでしょう。
私はリハビリ中に、グレゴリー・パターソンという青年に出会いました。彼はたまたま車でニューアークを通り抜けようとした時、ギャングの撃った銃弾が車の窓を突き抜けて首を直撃し、頸髄に重傷を負いました。5年前であったら彼は死亡していたでしょう。しかし、この間の研究の進歩によって彼は助かることが出来たのです。しかし命が助かるということだけでは不十分です。私達は彼が被る苦痛をやわらげ、また他の人々がそのような苦痛を味わうのを防ぐ、道義的、経済的責務があります。そのためには増税をする必要はありません。志を高くもてばいいのです。
アメリカは、他の国の人々が恐らくうらやむであろう伝統をもっています。私達は度々、不可能と思われるようなことも成し遂げてきました。それは私達の国民性の一部となっています。この国民性こそ私達を大陸の端から端まで到達させ、我が国を世界一の経済大国とさせ、そして月まで到達させたものであります。 私がリハビリをする部屋の壁には、轟音をあげて飛び立とうとするスペース・シャトルの写真が掲げてあります。それには、NASAの全ての宇宙飛行士のサインがしてあり、その写真の上の方には「我々は不可能なものはないということを発見した」という言葉が記されています。
これこそが私達のモットーであるべきです。民主党だけの、あるいは共和党だけのモットーではなく、アメリカのモットーであります。一つの党だけが出来ることではなく、国民として力を合わせてなすべき事であります。
私達の夢の多くは、最初は不可能に見え、ついで、ありそうもないという程度になり、次にはやってみようという意欲が湧いてくるものです。最後に必ずや実現可能なものとなるでしょう。外の宇宙で成し得たことは内なる宇宙でも成し得るでしょう。そして今、多くの生命を奪い、我が国の多くのポテンシャルを奪っている脳、中枢神経系など、その他多くの難病のフロンティアがあります。
研究の進歩は、アルツハイマーを患う人々に希望を与えつつあります。私達は既にこの病気を引き起こす遺伝子を発見しています。研究の進歩はまた、ムハメッド・アリやR・ビリー・グラハムのようなパーキンソン病に悩む人々に希望を与えるでしょう。カーク・ダグラスのような脳卒中におそわれた人々にも希望を与えるでしょう。また多発性硬化症と闘ったバーバラ・ジョーダンのような人々の痛みを緩和することが出来るでしょう。既に亡くなった、エリザベス・グレイサーのようなエイズ患者のための治療方法を発見することも出来るでしょう。
私達は今「脊髄は再生する」ということを知っています。今や、世界中の何百万もの私のような人々が、この車椅子を離れ、立ち上がることが出来るようになる道筋の途上にあります。
56年前、フランクリン・D・ルーズベルトは国立保健衛生研究所(the National
Institutes of Health、NIH)のために新しいビルを建てた時、次のように語っています。「国民が求めている防衛とは、戦闘機、軍艦、銃、爆弾を作ること以上にはるかに多くのことを意味する。我々は、健康な国民でなければ強い国民たりえない」と…。彼は、今日なら次のように言うかもしれません。「車椅子から何とかして自らを立ち上げ得た人は、国民を絶望から立ち上げうることにもなろう」と…。
私は、そして民主党政権もそうであると思いますが、我が国の最も重要な基本原則「アメリカは助けを必要とする国民を放り出しはしない」という基本原則を正しいと信じております。この基本原則はフランクリン・D・ルーズベルト大統領が、私達に教えてくれたものであります。
私達の全てが私達の全てを大切にする時、アメリカはより強くなるでしょう。こうした理想に新しい命を吹き込むことは、今晩ここに集まった私達にとっての挑戦課題であります。
御静聴を深く感謝致します。大変ありがとうございました。(1996年8月26日)
[解説]
このC・リーブのスピーチは以下の点で注目される。C・リーブは「障害を持つアメリカ人の法」(Americans with Disabilities Act 、ADA)を「公民権法(Civil Rights Law)」であると明確に述べている。単に社会福祉政策を進めるための行政的立法ではないと言うことである。
ついで、障害や難病の根本的解決に積極的に取り組むべきであると主張する。障害者の生活を支援する公的補助のみでなく、機能回復の研究や障害と疾患を根本的に治療するための医学・医療研究を推進することは、結果において、障害者の根本的QOLを高め、国民の負担を軽減すると考えるのである。しかもそれを「公民権思想」の一環として捉え、挑戦に値するフロンティアとして位置づけている。
そして、民主党に対してそのような政策を進めるように呼びかけたのである。一般的には、脊損者の社会的扱いは、補助金給付と社会福祉的ケアの対象という面に専ら重点が置かれてきた。機能回復や治療の対象ではなかった。それに対してC・リーブのスピーチはより積極的な視点を提示するものであった。 確かに、クリストファー・リーブを支援する企業やメディア、組織にとって、スーパーマン・キャラクターは抜群のCM効果を持つ。同時に、「障害者に優しい」とかあるいは「福祉に熱心」という絶好のアピール機会を得ることにもなる。
また民主党には、その大会にC・リーブを招待することによって、クリントン大統領が署名した「福祉改革法」への「弱者切り捨て策」という反発をかわす狙いがあったかもしれない。恐らくこれらは当時のアメリカにおける「演出された」C・リーブ・フィーバーの一面でもあったとも言えるだろう。 とはいえ、C・リーブのスピーチ全体の重要性はしっかりと把握しておきたい。
彼は「弱者切り捨て」を正面から批判し、さらに障害者問題を単に生活支援や介護の問題にとどめることなく、機能回復や治療のために積極的に医学・医療研究に資金を投じて行くべきであると繰り返し主張する。
実際には、脊損者が様々な付随症を克服しつつ立ち上がり得るに至るまで、長い困難な道のりは避けられないであろう。しかし何よりも、ベンチレーターを搭載した電動車椅子を呼気操作しながら積極的な活動を再開したC・リーブの姿そのものがこうした論点の重要性を物語るものであった。福祉のみならず、それまでは余り省みられなかった医学・医療の重視である。
ビッグ・ネームの正鵠を得た発言と活動は、各界に一定の影響を及ぼし、その意義は小さくなかった。この間、リーブが設立し会長を務める「クリストファー・リーブ麻痺財団」は着実に発展し、研究支援の実績を積みつつ、脊損者への専門医学情報の還元を進めているのである。様々な形態の同様の組織も形成されている。
21世紀に入り、再生医療や遺伝子医療に関わる基礎研究は次々と新たな展開を見せつつある。しかし、わが国では、医学と医療と障害当事者の日常との間の乖離は、今なお絶望的な程である。この乖離を埋めていく努力が、医学、医療、行政、当事者相互の間で為されて行かねばならないであろう。障害者も医学の新たな地平に真剣に向き合うべき時代が来たのである。
(翻訳・解説:阿部由紀:2003年2月)
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